Accusation-Biased Culture

非難/批判/ダメ出しが得意で、それがつい強めに出る文化について。

ある文化では短所より長所に着目し、失敗を許し、成功をおおげさなほど称え、自信を持たせ、自信を持ち、お互いを鼓舞してイケイケなムードの中、前進していくことが好まれる。
「すごいでしょ」アピールに長けており、実体を割り増しした価値を見せることが普通。

またある文化では長所より短所に着目し、失敗を論い、成功は静かに噛みしめ、自慢を嫌い、出る杭を打ち、調子に乗らないようにお互いを監視して、問題を起こすぐらいなら何もしないことが好まれる。
低い/悪い/足りないアピールに長けており、実体を割り引きした価値を見せることが普通。

良いとか悪いとかじゃなくてね。
これは単なる違い。

ただ、こうした文化が、たとえば言語をそろえることで交わり、同じ土俵で、お互いが文化的な違いを認識しないまま、それぞれの解釈で相手の言うことを理解しようとするとちょっとまずいことになる。

短所文化の人は、長所文化の明るさ、きらびやかさ、元気のよさに圧倒され、憧れ、真似したくなる。
得意のダメ出しをフル活用し、我が身を振り返っては「あぁ、自分はなんてダメなんだ」と嘆き、「あのキラキラした人たちを見習って、変わらなくちゃ」と思い立つ。
が、変われない。
少しでもキラキラに近づこうと、長所文化の言語を覚えたり、そこへ入って暮らしてみるなど、地道に努力を重ねて頑張るのだけど、やっぱり変われない。
あのキラキラした人たちに比べて、自分たちはなんてダメなんだ。
劣っている。情けない。恥ずかしい。
そういう思いが強化される。

短所文化の人は、基本的に褒められてもなかなか信じない。
ところが、長所文化の人に褒められるとすんなり受け入れ、やたら感激してしまったりする。
長所文化の人は日常的に褒め慣れているし、褒め方も豊富に備えているので、それこそ眉唾ものなのだが、ま、憧れの人に、見たこともない褒め方で褒められたら、そりゃ、うれしくて舞い上がっちゃうよね。
それでつい「異文化」の前提が薄れるのだろう。

そして短所文化の人は、長所文化の人からのダメ出しをものすごく怖れている。
長所文化の人のお気に召さない(ように思える)ことは、先回りして全力で防ごうとする。
“忖度”(参照)である。
そもそも長所文化と短所文化では「ダメ」の基準が大きく異なり、それこそが短所文化の“憧れ”の理由だったはずなのに、自分たちの基準で「ダメ」に当たりそうなことが起きると「このままでは長所文化の人からダメ出しをくらってしまう」と勝手に思い込んで慌ててしまい、トンチンカンな行動に走りやすい。
長所文化の人に「あれ、ちょっとどうなの?」と言われただけで、短所文化の人は「はぅわぁうぉわぁ、直ちに改めます!」と過剰反応するようになる。

そして、短所文化のダメ出しは、“身内”にもっとも厳しく働く。
通常、短所文化圏内ではメンバー間で監視をしあい、「ダメ」にならないよう芽を摘んだり足を引っぱったりして、ダメ防止に努めている。
だからその監視の目を盗み、さらには自文化圏外で“粗相”をする輩がいようものなら、ソトに向けては「うちの者が、大変申し訳ございませんっ!」と平謝りに謝り、ウチにおいては「よくも我々の顔に泥を塗ってくれたな」と集中砲火的に、なかば生き生きして責めることになる。
長年にわたって鍛え抜かれたダメ出しの力と技をいかんなく発揮して、最大の「ダメ」を大量に、しつこく浴びせかける。

そうやってウチに目が向くと忘れてしまいがちだが、その短所文化の様子を、長所文化の人も見ている。
彼らも短所文化のことはよく知らないので、相手の「ダメ」を自分たちの「ダメ」に当てはめて解釈する。
謝罪も追及も非難も、自分たちの基準に照らして判断する。
そこでもまた「異文化」という前提が薄れる。
あんなに大掛かりに謝ったり、辛辣に責めたりするということは、相当ひどいことなのだろうと解釈する。

あるいはそれを利用することもできる。
長所文化にしてみれば、事情はなんだかよくわからないけど、結果的に不都合が解消されたり、お詫びの品が届いたり、相手が勝手に改善の努力を始めるのはありがたいことなので、「ま、じゃ、それで」と受け入れることになる。
もちろん悪用しようと思えば、それもすぐにできる。

最近の東京オリンピック準備関連のイザコザを見ていて思う。
日本語の英語訳ができる日本人は増えたけれど、日本の短所文化を、たとえばアメリカの長所文化に翻訳できる人はとてもとても少ない。
しかし、彼らはそのことに無頓着なので、英語を使いさえすれば“万国共通”の“正確な”伝達が可能になったと勘違いして、短所文化ならではの自国のダメ出しを思いっきりしてしまう。
ひょっとしたら「英語で対等に発言できてる自分」に酔って、気が大きくなっているのかもしれない。

短所文化の人々が嬉々として自虐趣味を披露する様子を、かつて長所文化の人は気味悪がっていたかもしれないが、現在は「ま、じゃ、それで」という態度なのでブレーキがかからない。
言葉尻をとられ、証拠をとられ、悪用されることにならないか、“うちのコ”を見守る身としては、ヒヤヒヤする。

日本人に英語を使わせるということを、改めて考える。
かつての日本人は、文化的にやや近い短所文化の英語を習い、それを日本の文脈で使うことで異文化間の関係を築こうとした。
一方、現在の日本の英語教育には長所文化が添付されており、お互いに異文化の前提を(一部は作為的に)無視して、日本人が相手の文脈になんとなく乗っかることで関係を築こうとしている。
日本人に英語を使わせるということは、ひょろひょろの体で、いいように使われてしまうのを知りながら、日本人を相手の土俵に上げることになるのではないか。

これ、本来の短所文化的発想なら間違いなく「白紙に戻した方がいい」と言うところだろう。
「私たちのような者が、そちら様の土俵に上がるなど滅相もございません」と頑なに拒絶し、「我が身の至らなさを省みず、日本人に英語を使わせるだなどと、軽率に大それたことを考えて誠に申し訳ございませんでした」と平謝りに謝るのだろう。

でも、そうはなっていない。
短所文化はあいかわらずなのに、英語については意欲満々。
イケイケどんどん。テンションマックス。アゲアゲ。ノリノリ。
そのあたりのちぐはぐさ、混迷、混沌。
無理やり良さげに言えば過渡期、チャンス。
そういう中に、私たちはいる。

*”Accusation-biased”は私の造語です。対義語は”Commendation-biased”かな。

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