「いまさら変えられない」

「いまさら変えられない」について。

私は「いまさら変えられない」などという物事はあり得えないと思っている。
「変わらない」ものがあるのは知っているし、「変えたくない」という気持ちも理解できるが、「いまさら変えられない」には納得できない。
「いまさら変えられない」という人を信用しない。

「いまさら変えられない」にはズルさがある。
心情的に「変えたくない」ならそう言えばいいし、「変える努力をしたくない」ならそう言えばいい。
でもそうは言わず、「いまさら変えられない」と、あたかも自分のせいじゃないように見せかける。
「変えることに賛成していないわけじゃないんですけど、こればっかりは仕方がないんです」という“やむを得なさ”をアピールする。

「(自分が)変えたくない」「努力したくない」と言えば、もちろん反論が起きるだろう。
「気は進まなくても、変えるより他にないでしょう」と説得されるのかもしれないし、「甘ったれるな」と叱られるのかもしれないし、「そういう考え方を変える良いチャンスだよ」と背中を押されるのかもしれないし、「一人で無理なら手伝うから、一緒に変えてみようよ」と協力者が現れるのかもしれない。

「いまさら変えられない」はそれらの反論をすべて封じ込め、すべての可能性をつぶす。

そもそも「いまさら」とは何だろうか。
たとえば2-3年の過去と20-30年の未来を比べたとき、あるいは、いくらかの過去の支出とその数倍、数十倍の損失見込みを比べたとき、その「いまさら」にはどれだけの説得力があるだろうか。
「いまさら変えられない」にはそれを言う人の利己的で視野の狭い様子、器の小ささ、度胸のなさ、そしてそれを認めない頑固さが表れる。

「いまさら変えられない」には文字どおりの意味は何もない。
「これ以上は聞かないでください」「黙って引き下がってください」「私に何かさせようとしないでください」「折れてください。見逃してください」という懇願でしかない。
こういう言語的Abuse を好んで行う人を、私は好まない。

そして仮に相手が引き下がったとして、その後はどうなるのか。
「いまさら変えられない」の人は、そこに一切興味がない。
目の前のゴタゴタさえ収まれば、それで満足。
後先は考えず、その場しのぎなのである。
物事の本質やゴールを見失っているのである。
思考停止なのである。
そんな中身のない、無責任な人間と仲良くしようとは思わないし、まして、何かを任せる気になどなるわけない。

“おせっかい減量キャンペーン”中につき、私は「いまさら変えられない」の相手はしない。
それを言う人自体は、もう変わらないから。
ただ、変えようとする人の邪魔をしないでほしいと思う。
あなたは変わらなくていいですから、どいてください、と思う。
「いまさら変えられない」と言う人が、「だから変えない」「このまま行く」と頑張っておかしなことになった例は過去にいくらでもある。

「いまさら変えられない」を支持する人は、それぞれが自分の持ち場で「いまさら変えられない」を使って逃げてきた経験のある人たち。
そういう人たちがカタマリになって、集団の力で「いまさら変えられない」を押し通そうとする。
もしある項目において「いまさら変えられない」を変えられでもすると、事は他の項目にも及び、自分の立場が危うくなる。
だから「『いまさら変えられない』が変わった」という前例は断じて作ってはいけない。
そうやって頑張っているのである。

「いまさら変えられない」と言ったら即退場。
一発アウトで、それ以降、プロジェクトに一切関わらせない。
つまみ出す。
そういうルールにしてもらえないもんかしらね。

それができないとしても、少なくとも「いまさら変えられない」と言う人の言うことを聞いてはいけない。
彼らは都合の良い既成事実を作り、それを根拠に強引に実行し、良くない結果をもたらし、周りに迷惑をかけ、最終的には知らん顔して逃げるだけだから。
その逃げ方も、逃げる習慣も「いまさら変えられない」人たちなのだから。

「変える」ことはいつでもできる。
遅すぎるなどということはない。
大切なのは「変えられるかもしれない」という前提でよく考え、議論すること。
もちろん、「変える」だけが良いわけではないから「変えない」ならなぜ変えない方が良いのか、きちんと説明すればいい。
可能性を検討し、判断した上で「変えることはできるけど、変えない」と決めるならそれでいい。

「変えられる」ことが信じられなくなったら、教育はすべての意義を失う。

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