信頼度

SWITCHインタビュー 達人達(たち)「森本千絵×吉本ばなな」(参照)を見た。

考えたり咀嚼したりするための間や、あいづちや表情を含め、お二人の話す様子がとても良かった。
(実際には言語じゃないんだけど)共通言語があるなぁ、言葉が通じているなぁと感じた。

この心地良さは、しゃべるのが得意な人や、ペラペラしゃべることを目指している人にはたどり着けない。

お二人とも、自分の想いや経験を言語化することに対して抵抗しながら、妥協しながら、ぶつかりながら、逃げずに、丁寧に取り組んでこられたんだろうなぁと思う。
もし今の仕事に就かなかったら、伝わりにくいことを伝えたり、伝わらないジレンマと闘ったり、誤解との付き合い方を工夫したり、伝えきれないことを認めたりする必要はなかったかもしれない。
そして、もしその止むに止まれぬ事情がなかったら、こんなふうに言葉の限界を包み込むような話し方や、言葉にならないものを補うような聴き方、想像の仕方ができるようにはならなかっただろうと思う。

こういう話し相手と、こういう話し方で、こんな話をするのが私の好みなんだな。

吉本ばななさんが、お子さんを出産して以来、「世の中に対する信頼度が増した」と言っていた。

それで気づいた。
私は世の中に対する信頼は「0か100か」「有るか無いか」、つまり「白か黒か」でしか考えていなかった。
世の中に対する信頼に「グレー」が存在し、しかもその濃淡が変化する場合があるとは。

私は世の中を、どういうわけか絶対的に信頼している。
「お天道さま」にしろ、「修行のカミサマ」にしろ、私は常に誰かや何かに見守られ、導かれ、ときには叱られ、試練や試験や喜びや哀しみを与えられていると思い込んでいる。
「こりゃ何かの間違いじゃないの?」「意味不明」と思っても、それは単なる私の考え違いで、少し時間を置けば「あーなるほど。そういうことか」と必ず納得できるようになっている。
そして、何やかんやいろいろあっても、最終的に、悪いようにはならないと決めつけている。
私以外の人にも、人間以外の生き物にも、生き物以外にも、同じことが起きているように、私には見えている。

しかし、世の中には、世の中を信頼していない人がいる。
にわかには信じられなかったが、さまざまな出会いを経て、「そんなはずない」を覆す証拠をいくつも並べられて、今は残念ながらそのことを知っている。
その「『知らない』を経て『知る』に至った」というプロセスもまた、必然だったのだろうと思う。

世の中を信頼していない人に対して「そんなことないと思うよ?」と声をかけていた時期もあったが、それはもうあまりしなくなった。
それはそれで、しょうがないからね。
信頼できないならしょうがないし、信頼しないのも自由だし、そういうことって変わらないものだから。

でも、そうかぁ。
「さほど信頼していなかったけど、信頼できるようになった」ということがあるのかぁ。
なるほど。

そしてその「『信頼しない』を経て『信頼する』に至った」という経験こそが、彼女の現在の話し方をつくっているんじゃないかと思う。
これは世の中を信頼している人の話し方、聴き方だもん。

うーむ。そうかぁ。
言葉が通じる・通じないの分かれ目は、これなのかもなぁ。

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