日本人の議論

日本人の議論について、問題点と提案。

私がこれまでに参加した議論といえば、
①外国や外国人や外国語や外国流の議論と縁のないアメリカ人モノリンガルたちと英語でする議論。
②外国人とある程度接点のあるアメリカ人たちの中に留学生など他の外国人がいる状態で英語でする議論。
③いろいろな国、文化、言語の人たちがまんべんなく集まり、共通言語として英語でする議論。
④アメリカ人や他の外国人と英語で議論した経験のある日本人たちと日本語でする議論。
⑤外国や外国人や外国語や外国流の議論と縁のない日本人たちと日本語でする“議論”(議論にならない不思議なもの)。

議論のスタイルとしては、①②はアメリカ流、③はメンツによってアジア流だったりヨーロッパ流だったり、④は概ねアメリカ流、⑤は日本流。

今回参加したのは、
⑥外国や外国人や外国語と大いに縁があり、外国流の議論を外国語でした経験がある人とない人が混在し、ほとんどが日本に住んでいるが一部は日本以外に住んでいる日本人たちと日本語でする議論。
テーマはざっくり言うと「日本人の英語教育について」。

②~⑤のいずれの要素も入っていそうな珍しいかたちなので、果たしてどういうスタイルになるのかなと思っていたのだが、⑤の“議論”と同じような感じになった。

日本人が日本語で行う議論にも関わらず④が日本流にならない理由は、参加者が主にアメリカ流の議論を英語でやるのに慣れており、その利点をよく知り、おそらくは日本流“議論”の欠点もよく知り、たとえ参加者が日本人+使用言語が日本語であっても日本流に“陥る”ことがないように気をつけながら行うから。
「英語でやっても構わないんだけど、母語が使えるならその方が便利」というような人たちが集まると、わりと自然にこのかたちになる。

一方、場所がアメリカでも、日本的な日本人が集まると⑤になる。
日本で日本的な日本人が集まっても⑤になる。
議論のスタイルは場所や使用言語では決まらない。

今回の“議論”はオンラインで行われ、参加者にある程度以上の英語力があり、教育レベルも高めだったので、新しいスタイルが生まれるのかなと期待していたが、そうはならなかった。
参加者は特に所在地を明かさなかったが、おそらく日本からの参加者が多数派で、「日本語=日本人=日本流」が自動セットされていたのだろう。

議論のスタイルと英語力は別の話だと思うけど、日本流以外の選択肢を持つためには、外国人と議論した経験が必要で、そのためには英語が「ある程度」では足りないわけで、別の話ではあるけど、無関係でもないのだろう。
今回の参加者は英語で議論することも不可能ではないけど、おそらくその経験が少なかったのだろう。
無理に英語でやったところでスタイルは日本流のままで、「英語に見えるけど英語じゃない」(参照)でおなじみの、英語ガラパゴス現象の議論バージョンになるだけだと思う。

これまでに経験した⑤と、今回経験した⑥から、日本流“議論”に見られる特徴を、以下の3つのポイントに絞って改めて考えてみる。

1. 沈黙、泣き寝入り、蒸し返し
日本流“議論”では、議題/質問が投げられてから発言者が発言するまでに時間がかかる。
これには「正解を出そう」「他を圧倒する立派なことを言おう」「軽はずみなことを言わないようにしよう」「バカだと思われたくない」あたりの、プライド周辺の何かが邪魔をしている可能性があるが、一言で言えば、瞬発力がないのである。
ゴチャゴチャ考えているうちに間が空いて気まずくなったり、意味もなくハードルが上がってますます言い出しにくくなったり、誰かに先を越されて、ただうなづくだけになってしまったり。

この日本流“議論”のモジモジ感を①~④に持ち込むと、ほとんどの場合、何も言えず、出席しながら実質的には不在という状態のまま議論が終わる。
言いたいことがあっても「泣き寝入り」をすることになる。
「聞くだけでも価値があった」「出席することに意義がある」とかなんとか言ってごまかすことにもなる。
注目してほしいのは、④の日本語の議論でもこの「泣き寝入り」は起きるということ。
英語のせいにしないでね。

そしてこのモジモジ感を⑤に持ち込んだ場合は、「気まずい沈黙」と「蒸し返し」が起きる。
沈黙とは、「他にないですか?」→シーン、となって議論が起きないこと。
蒸し返しとは、議論が尽き、とっくに他の話題に移った後で「さっきのあれですけど…」と持論を持ち出し、場合によっては演説のようにとうとうと述べて、他の参加者がドン引きして議論が起きないこと。

2. 論点のズレ、散らかり
ズレた発言をする人は何語でもナニ人でも、どこにでもいるが、日本流“議論”ではズレた発言をスルーせず、拾って広げる人がいる。
いわゆる“自転車置き場の議論”(参照)に似ているが、日本流の場合、拾う理由に「聞いた以上は無視するわけにいかない」「みんなを平等に扱わないと悪い」という気持ちがあるのではないかと思う。
個に対する気遣いによって、集団が犠牲になるパターン。
議論をファシリテートする人が、参加者を“お客様”扱いして、つまり「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」を重視して、拾わなくていいものを拾う場合もある。
拾われた方はズレに気づくチャンスを失うばかりか、仲間を得たと勘違いして強気になり、ますますズレていく。

3. 堂々巡り
2.でズレを拾う人は、ご丁寧なことに、1.の蒸し返しも拾う。
一人の「言いそびれ」をカバーするための蒸し返しに参加者全員が巻き込まれ、付き合わされ、終結したはずの議論をもう一度なぞるようなことが起きる。

日本流“議論”ではまともな意見とそうでない意見が同等に扱われる。
本筋から外れていたり、感情的だったりして、議論を破壊するような意見に対し、建設的な意見に対してと同じか、場合によってはそれ以上の時間とエネルギーが費やされる。
となると、まともな意見を言うのがバカらしくなる。
結果として、まともな意見を持つ人ほど、発言をしなくなる。

そんな時間ばかりかかって中身のないことをやっていれば、当然、参加者はストレスを感じる。
簡単に答えが出ないものや、答えのない問いに対して性急に答えを出そうとしてイライラする人もいる。
ストレスやイライラが充満した状態になれば、些細なことがきっかけでヒステリックになる人も現れるし、水掛け論になって、ケンカ別れになることもある。

あるいは、議論をする意欲が低下し、思考停止が悪化し、意見を求められても「それでいいです」や「わかりました」「お任せします」と言うばかりで、波風も交渉も摩擦も、つまりは展開も発展もないまま、“議論”の時間をただやり過ごすことにもなる。

日本流“議論”を好む人はいないだろうと思う。
たとえば、④の日本人たちが「たまには日本流でやりましょうか」と言うことはあり得ないだろう。
日本流を続けている人は、ただ他に方法を知らないか、初めから議論する気がないか、その両方なのだろうと思う。

私の考える、日本流“議論”を議論にするための提案は
以下のとおり。

1. 議論における瞬発力をつける。
正解を出そう、言い負かそう、頭よく見せようとしない。
立ち止まって考え込んでいると、全体の流れが見えなってしまうので、他の人の発言をよく聞き、議論の流れをよく見る。
発言する場合は、適切なタイミングで、手を挙げたり、口を軽く開けるなどして発言権をきちんと得て、落ち着いて話す。
有意義な発言とは議論の場での思いつきやハッタリ、付け焼刃ではなく、日頃の思考の表れであるということを知る。

2. 発言の重さ・軽さを正当に評価する。
言いそびれて流れてしまったものについては潔くあきらめる。
議論の本筋から外れたものの相手をしない。
蒸し返しや堂々巡りが起きた場合は冷静に対処し、発言者の感情に配慮してジョークなどで場を和ませ、議論の目的やゴールをリマインドして本筋に戻す。
一方、重要な指摘や貴重な意見は大いに取り上げる。

3. 議論のまとめを行う。
議論の前と後で何の変化もなければ、議論の意味がない。
変化とは、情報レベルのものに限らず、参加者の考えの深さや方向性、信念におけるものを含む。
議論によって、何がどう変化したかを報告し、参加者が議論に参加した意義を確認できるようにする。

こういうことができるようになれば、英語なんてできてもできなくても、どっちでもいいし、英語をやろうと思ったらすぐできるようになるんだよ。
まずは日本語で構わないから、やってみ?

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