コネ

「コネ」を殊更に悪く思う文化について。

アメリカでは5月の学期終わりと卒業が過ぎ、新年度に向けての就職や転職に関わる交渉期間を経て、そろそろ引越などの物理的な動きが始まる頃。

就職のため日本へ帰国する日本人と会い、就職に至るまでの経緯を聞いていたときのこと。
何の気なしに「恩師の紹介だったの?」と尋ねたら、強い口調で「違います。全員、公募です」と返された。

でも、研究職だし、母校と関連がありそうだし、就職先にはすでに学会などを通じて知り合いもいそうなので、「あぁ、表向きはそういうことになってるのね」と言ったら、「いいえ、完全なる公募です。コネじゃありません」ときっぱり言われた。

その「無礼なことを言うな」という雰囲気でようやく気づいた。
そうか、日本の採用で「コネ」というのは「ズルいこと」とされているんだった。
それで急いで「ごめんごめん。そういうつもりじゃないんだよ。
アメリカでは紹介で仕事が決まるのは普通だから」と説明した。

事実、私の友人の多くは紹介によって仕事を得ている。
Nは博論の審査員の一人が自らの職場に招いてくれたし、そういう超直接的なものでなくても、Academic advisor(指導教員、師匠)が
何かしらの口を利いてくれることはよくある。
Kは就活中に師匠の知人の家族を通じて「今度こういうポジションが空くよ」と内々に知らされ、指示どおりの手続きをして就職が決まった。

組織によっては、アメリカ人向けの雇用機会均等のため、外国人の雇用契約が満了した時点で、そのポジションに対し一般公募をすることが義務付けられている場合がある。
その制度により、外国人のMはいったん契約終了となったが、なるべくMに残ってほしい職場としては、公募をするにはするけど広報は最低限に抑え、ルール違反にならないギリギリのところで可能な限り競争を起こさない採用方法をとった。
公平か不公平かといわれれば不公平かもしれないけど、それはつまり、Mが職場でいかに信頼され、人事担当者に求められているかを示すわけだから、まったく悪いことじゃないと思う。
私が「表向きは公募」と言ったのはそういう意味。

学生だってそうである。
私なんて裏口入学もいいところ。
最初のTESOLこそ一般公募で表玄関から入ったが、コミュニケーションの修士のときは師匠のP教授に「応募書類に私の名前を書きなさい」と言われたし、博士のときは、むしろ抵抗する私をK教授が押し込んだようなものだった。

アメリカには紹介で人事が決まる文化がある。
「コネがあった」ということを隠す人も非難する人もいないし、「コネじゃない」ということを取り立てて誇りに思う人もいない。
だから推薦状が必須で、誰に推薦してもらうかが重要で、それによって結果が思いっきり左右される。
だから人脈づくりにつながるソーシャルな活動が大切で、だからBrown Nose もAK もいっぱいいるんだけど、良いコネを上手に利用するのは正当であり、当然のこと。

採用側にしたって、採用にかかる費用や手間をかけて見ず知らずの人をイチから審査するより、ある程度、身元や能力がわかっている人を採った方が効率が良い。
採用後の働き方という意味でも、職場の人間関係や安定した雇用の維持のためにコネのある人材を採っておくのは有効だろうと思う。

コネは何にも悪くない。
コネはちゃんと機能すれば、Win-Win の制度なのだ。

日本で「コネ」の評判が悪いのは、コネを使う人たちがコネに頼りすぎで、甘えすぎで、その結果、コネなしとコネありの実力差があまりにも大きくなり、どうしても「ズル」と直結してしまいやすいからだろう。
そして、周りの人たちもコネの効果を絶対視しすぎていて、コネありを正しく評価できない。
コネありが努力によって成功しても、周りはコネにとらわれてしまって、なかなか努力を認めない。
そのことが原因で努力するのがバカらしくなるコネありもいるだろう。
また、コネありの油断や怠慢を目の当たりにしても、陰口を言うばかりで、実際的な手段を講じない。
コネありとコネなしの溝は深まるばかり。

つまり日本のコネは、雇われる側にとって、特に採用時には”Win” でも、長期的には雇う側が”Lose” となる可能性が高く、コネありと一緒に働くコネなしにとっては僻みのタネになりやすい。
コネで採用された本人にしたって、見方によっては”Lose”。
ってことは誰も得しないんじゃん。

アメリカのコネが有効に働くとはいえ、「コネさえあれば万事OK」というわけにはいかない。
また、本当の競争は入学・就職後に始まるので、そこで戦っていけない者は、きっかけがコネだろうとなんだろうと、ちゃんと脱落するようになっている。
だから「コネ」と「ズル」とが結びつかない。

一方、日本では入試にしろ入社にしろ、伝統的に「入ること」に強い憧れがあり、「入った後」の管理や成長を疎かにする文化がある。
だから「下駄を履いてでも入りたい」という気持ちが生まれる。
「入ったもん勝ち文化」である。
新しい分野や若い集団、意識の高い組織では廃れているようだが、この文化を保ったままの古い組織はまだ多い。

実力以上の“合格”を不当に与え、本来なら入ることを許されるはずのない人を「コネ」1本で、まったく篩にかけず入れてしまう。
コネで入った人の中には、「自分はコネありだから他の人たち以上に頑張らねば」と謙虚に努力する人もいるが、そうでない人もいる。
上述のとおり、周りの影響で努力をやめる人もいる。
その結果、コネありの組織への貢献は少なくなる。
にもかかわらず、他のメンバーと同等の報酬を得たり、場合によってはそれ以上の評価を得たりする。
組織としてはコストに見合わないメンバーを抱えることになり、メンバー間では士気が下がったり険悪になったりする。

で、「コネは全面禁止!」ということになる。
少なくとも新卒採用で、表立ってコネ入社を推奨したり、公表したりすることはしにくくなる。
悪いのはコネじゃないのに。
雇う側にとっても雇われる側にとっても好都合な制度なのに。
だからどこでも自然に発生しているし、アメリカでは今日も脈々と続いているのに。
日本ではそういう、“自分の首を自分で絞める現象”がよく起きる。

とはいえ、転職活動や営業活動、取引や業務提携などにおいては、日本でだって、コネが有効活用されている。
コネの利点は知られていないわけじゃないのだ。
つまり、「コネは悪いもの」というのはコドモ向けのルールで、「嘘をついてはいけません」と同じように堂々と打ち出しつつ、オトナはちゃっかり別途、緩めのルールを設け、より柔軟な行動をとっているということだろう。
コドモのルールじゃ、世の中まわっていかないもんね。

就活までにオトナのルールが理解できるように学生が成長し、せっかくの仕組みを悪用してつぶさないようにみんなで気をつけ、コネありといえども容赦しない正当な競争が働き、欠点を論って僻んだり陰口を言ったり足を引っぱったりするより、お互いが健全に努力を続けられるような環境をつくる方が組織や社会全体のためになるということが知れ渡ったら、日本のコネは堂々と復権し、ちゃんと機能するようになるだろう。
で、「コネかどうかなんて、どうでもいい」となるだろう。

「コネじゃありません」と強めに言った彼女もいつかオトナになって振り返ったら、「あのときの自分はワカかったなぁ」と思ってくれるかな。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です