続・英語教育リテラシー

日本の英語学習者にできるようになってほしいこと。

日本で英語を学習する人には、自分に英語を教えてくれる人が誰なのか、ちゃんと知ろうとしてほしいと思う。

たとえば高校生ぐらいになったら、ひとくちに「英語」と言ってもいろいろあるんだなーということがわかる。
一昔前までなら「英語 I・II」「リーディング」「ライティング」「オーラルコミュニケーション I・II」とか、今なら「コミュニケーション英語 基礎・I・II・III」「英語会話」「英語表現 I・II」とかね。
大学の科目名はもっと多様で、必修で興味もないのに取らされるクラスから、将来の職業に直結する専門的なクラスまでいろいろ。

“選択”とは名ばかりで、実際は単位の都合やスケジュールの都合によって取るクラスはほぼ自動的に決まってしまう。
で、履修登録したら、あとは学期末まで言われたことをやって過ごす
…んじゃなくて。
ここでリテラシーを発揮してほしい。

諸事情でなんとなく取ることになったクラスほど、担当の先生、講師、教授がどんな人かよく見ること。
何が専門で、このクラスをなぜ受け持って、学期末までに自分たちをどう変えてくれるのか。
自分の貴重な時間を使って授業に参加するのだから、無駄にならないよう、少しでも有効に使えるよう、そこは積極的になってほしい。
自分の学びに責任を持ってほしい。

以下、極論。
「みんなじゃないですよ」とか「立派な先生も素晴らしいクラスもありますよ」とか、適当にはさんでお読みください。

たとえばアメリカで文学を修めた人が帰国して日本の大学に勤めるでしょ。
本当は文学を教えたいけど、いろんな事情で、とりあえず「英会話」を教えることになったりするわけよ。
そりゃアメリカに住んでいたし、英語はそこそこ話せるから、日本人学生相手の「英会話」ぐらいは教えられちゃうわけよ。
会話を習った経験もあるから、そのとき使った教材を使って、自分が習ったように教えれば、なんとかなるでしょ、と思うわけよ。

一方、学生のあなたは、英会話を上達させようと意気込んで、そのクラスを取る。
「英会話」のクラスにしては、ナマの会話が少ないなぁ。
CDのリピートだったら、別に授業に出席しなくてもできるなぁ。
先生、日本語訳とか語源とかの話になると止まらないなぁ。
など、モヤモヤすることがあるのだけど、「英会話」の授業をとっているんだから、これもいずれ英会話の上達につながるのだろうと思って受講を続ける。
クラスメートたちは特に気にしていない様子。
彼らの履修理由は「この時間、これしか取るのがなかった」、「単位が必要だから」、「厳しくないから」などであって、英会話の上達ではないらしい。
何事もなく学期が終わり、また来年、同じ講師が同じ授業を担当する。

社会人向けのものも、だいたいそんな感じ。
近い将来、英語圏で仕事をするのに必要な会話力をつけようと思って「英会話」学校の門を叩く。
事務の人は自分の要求をよく理解してくれ、自分の望みにピッタリのクラスを紹介してくれたはずだが、授業が始まってみると、なんだか違う。
ネイティブにしろ、日本人にしろ、この先生たちは、本当に自分の英語を伸ばしてくれてるのかな。
モヤモヤ。
それでも、いずれ何かの役に立つのだろうと思って受講を続ける。
お金も払っちゃったし。
クラスメートたちは特に気にしていない様子。
週に何時間か、英語に触れているだけで楽しいみたい。

日本の英語教育では、そういうミスマッチが起きている。
やる気のある学習者ほど割を食うようになっている。
国も、教育機関も、諸事情によりこれを解消することができない。
解消できるのは学習者しかいないだろうと思う。

学習者が教える人をよく見て、自分の目的に合っているか判断する。
違っていたら別の人を探す。
諸事情により“チェンジ”が叶わないなら、「じゃあこの人からは何が学べるか」考える。
ダメ出しではなく、貴重なリソースとして、価値を見出すのだ。
「事情により、仕方なく、なんとなく」教えている人からでも、学ぶべきところはきっとある。
自分の目的とはズレていたとしても、せっかく縁あって取ることになったクラスなんだから、どこかに学びを生み出してほしい。

日本で英語学習をする場合、学習者の側が一歩先を行き、そういう“ひと工夫”を自ら施す必要があるのではないかと思う。
他の国で英語を学習する人にはない、辺境ならではの特徴、考えようによっては、「おもしろさ」かもしれない。

教育のような大きな問題に取り組む場合、その主導権を学習者が握るという例は、あまりない。
たいていは国レベルで議論をし、案を作り、施行して、学習者はそれに沿っていく。
現場の不満を吸い上げて修正することはあっても、抜本的な改革を学習者が担うことはないだろう。
でも、前例がなくても、やった方がいいことは、やった方がいい。

他のことでよくお手本にされる欧米の例は、こと英語教育においては参考にならない。
日本の英語学習者に比べ、欧米の学習者は英語を使う頻度がうんと高く、英語ができるか否かが死活問題だから学習意欲も高い。
欧米の学習者の多くは英語と近い関係の言語を母語に持ち、日本語母語話者とはさまざまな面で違いがある。

また、欧米では学習者の周りに英語ができる人がいくらでもいるから、英語を教える人に、プロとして求められるレベルが高い。
外国人に英語を教えるというのは特殊な職業なので、それに携わるということは、言語的知識、異文化への理解、教えるスキルなどを兼ね備えている必要がある。
国も移民政策の延長線上にあるバイリンガル教育や英語教育に本気で取り組んでいる。
英語教育は社会全体の問題であり、その道のプロたちが議論を重ね、さまざまな学習環境を提供し、運営している。
学習者は自分に合う方法を選んで学習できるようになっている。
ついでにクラスメートなど他の学習者からも良い刺激を受ける。

日本では、残念ながらその環境を整えることは難しい。
英語の必要性も、そりゃないことはないだろうけど、欧米や他のアジアの国に比べると大したことはない。
政策や教育改革を進める立場の人の中に、英語を自由に使える、つまり英語学習の成功者が少ない。
英語教育のことをよく知っている人はもっと少ない。
教室などの現場にさえ、英語が得意じゃない人が混ざっている。
「こんな感じでそれっぽく見せておけば、売れるだろ」と、学習者をバカにして、いいかげんな教材やサービスを売って儲けようとする人もいる。

ってなこと言うと、“職員室”では嫌われるし、敵は増えるし、出禁にもなるのかもしれないけど。
それを怖れて口をつぐんでいたら、何も変わらない。
本当はみんな、気づいてるんじゃないの?

日本の英語教育で、いちばん見込みがあるのは、学習者だと思う。
学習者が見る目を養い、教える人、教材、環境を選び、学習者コミュニティーを自ら育てる。
すると徐々に、教室や教材を販売する会社が変わってくる。
教える人たちが変わってくる。
その後、だーいぶ経って、ようやくオカミが少しずつ変わるのだろう。

それを実現するには、学習者の英語教育リテラシーを上げることが重要だと思う。
学習者には自分が何をどう学びたいか見極め、誰からどんなサポートを受けたいか考え、動けるようになってほしい。
教育者には、学習者のためにリスクを取ってほしい。
自分の得意と不得意を開示し、学習者の可能性が広がるように手助けしてあげてほしい。
保身や儲けに走らず、ムラ体質を捨て、プライドをかけて学習者を育ててほしい。

がんばれ、ニッポン。

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