玉石

発信できる場が増え、また本物の価値が試されるようになる、
というプロセスについて。

かつて出版といえば、エラい先生や特殊な職業のある地位以上の立場にある人だけに特権的に与えられた機会だった。
書いたものを公にする場は限られており、まずはそこへ入り込むために篩にかけられ、書いたものをチェックする機関と期間が設けられ、厳しい審査を通過したものだけが多くの人の目に触れることを許されていた。
出版する資格のない者が書いたものや、ボツになったものが公になることはなかった。

ということは、つまり、少なくとも建前として、世に出ている書き物は、世に出たというその事実によって、選びに選ばれた、読むに値するものだと保証されていた。
書き手は教養があり、信頼できる人物で、書く能力を備え、一般の人が持ち得ない何かしらの情報を持っており、編集者は教養があり、信頼できる人物で、編集能力が高く、書き手から引き出した情報を伝える役目を担い、出版物は一部の特権的な発信者たちが、持てる能力の限りを尽くしてじっくり厳選したものだけを載せ、読者はそれ以外の手段では接することのない情報を出版物を通して得ることができるようになっていた。

で、まぁ皆さんご存じのインターネットだのSNSだのの登場で「書き手」は激増し、出版する場としてのメディアもチャンネルも激増し、「読者」も激増し、「読者」が「書き手」にもなり、「編集」がなくても出版できるようになり、「印刷」も「配達」もすっ飛ばして、「書き手」が書いてから「読者」に届くまでの時間は実質ゼロにもできるようになった。

そうなると、まるでかつてのような“厳選”は消えてなくなったかのような錯覚がおきる。
誰でも出版でき、いくらでも、どこへでも、すぐに届けられる時代に、まだ「書き手」を選んだり、「編集」を施したり、削ったり足したり、ボツにしたり、悩んだりもめたりして、手間ひまかけるなんて古臭いような気もする。
「ごちゃごちゃ言ってないで、出しちゃえばいいじゃん」「意味わかんない」「そんなことやってるうちに、他の人が出しちゃったらどうすんの」などと言う人もいるかもしれない。

アカデミアを考えてみても、オンラインのみの学術誌や動画専門の学術誌なども出ているし、新しい学会を作るハードルも下がったので、研究を出版、発表する場が増えた。
同じようなことは、医療、飲食、アパレル、デザインなどあらゆる業界に見られる傾向だろうと思う。
もちろん教育も。
有名な人と、国境も時差も越えて気軽に“会える”ようにもなった。

ちょっとしたツールさえあれば、教養も信頼もモラルもすっ飛ばして、誰でも公に向けて発信できるようになったのだから、それを謳歌しない手はない。
そりゃ「みんな身近、みんな同じ、みんな仲間」と勘違いするのも無理ないよね。

実際、ネット上の書き物、発言、商品、サービスなどは玉石混淆。
が、まもなくそれは自然淘汰され、整備されていくのだろうと私は思っている。
なにしろ読者/消費者/受信者側に知恵がついてくるし、彼らの側にも変革を起こすツールが与えられているからね。
彼らは自分たちの利便性や安全のために「玉」と「石」がはっきり区別できる環境を整えていくだろう。
そして落ち着いたとき、「玉」と「石」は、またきちんと棲み分けられるようになる。

だって「玉」と「石」が混ざるなんてこと、ありえないからね。
どんなに数の上で優勢でも、「石」は「石」。
この混沌とした中でも、「玉」と「石」は決して混ざってなどいない。
「石」が公になる機会を得たのは”A welcome addition” ではあるけど、だからと言って「玉」と同等にはなり得ない。
混ったつもりになって喜んでいるのは「石」の方だけで、「玉」の方は、かつて“厳選”されていた頃と変わらず、厳しい目で公に発信するに値するものを選び、「玉」にふさわしい姿勢を貫いている。
再び、公が「玉」を正しく評価できる時代が来るのを待っている。

恐ろしいのは、データが無限に蓄積されていること。
「石」は未来永劫「石」のまま。
せめて「化石」にでもなれば、別の価値が生まれるかもしれないけど、残念ながら現状のかたちをそっくりそのまま保っちゃうんだよね。
あちゃー。

さらに、「石」には発信者の思い入れがないので、発信した事実は発信者の記憶に残りにくい。
ところがデータ上には発信者の正体も、発信した時間も場所も特定されており、それらの情報が、発信者の知らないところで誰かの目的のために利用されていく。

ま、これも「知らぬが仏」と思えば、大したことじゃないのかな。
私はそこまで楽天的じゃないので、とてもそうは思えないけど。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です