落ち込む

落ち込むということについて。

落ち込み、凹み、ふさぎこみ。
現代アメリカ文化にはこれらを嫌い、避け、防ぎ、もし落ち込んでしまった場合はできるだけ速やかに解消しようとする傾向がある。
日本では、そうじゃない時期もあったのではないかと思うが、少なくとも最近は同じような傾向がある。

落ち込まないようにするためには、落ち込むような出来事には初めから関わらないようにするとか、落ち込んでしまったら、他の楽しいことを考えて気を紛らわせるとか、記録をとっておき、体調など別の範疇での解釈を試みるとか、要するに「君子危うきに近寄らず」で賢く効率的にやり、「気にしない」「忘れる」「ポジティブに行く」というようなことが推奨されている。

ま、それはそれでいいと思う。
ご自由にどうぞ。
以下、なぜか行く先々で少数派になる私の考え。

私は落ち込むことを受け入れる。
それも、深く、深く受け入れる。
あまりにも深く受け入れ、深く落ち込むので、浮上するのには大変なエネルギーと時間を要する。
それでも私は落ち込むことをやめない。

精神的体力が足りなくなることもあるので、上記のような「気にしない」「忘れる」「ポジティブに行く」が早くラクになれる方法だということは知っている。
だから、それしかないと思う人を止めはしない。
でも、こうした“鎮痛剤”には副作用があるので、私は服用しない。

落ち込みの深さは年齢を重ね、経験を重ねるごとに増す。
常に深化+進化する落ち込みをしっかり受け止め、分析したり分解したり、過去のデータと照らし合わせたりしつつ、自分がどういう方法を編み出し、何が浮上につながるのか観察している。
「お、落ち込んでるね。で、どうする?」ってなわけだ。
ドMの私の人体実験。
よい子はマネしないでね。

そうやってもがいて、たまたま何かが功を奏して、ようやく浮上したなと思うと、また別の落ち込みがやってくる。
勘弁してよ、と思う。
私だって、できれば落ち込みたくはないのだ。
でもどうやら生きている限り落ち込むということは付いて回るらしい。
じゃ、しょうがない。

私がこの訳のわからない実験を続けている理由は2つある。
1つは、好み。
ポジティブ一辺倒タイプの人が苦手なのだ。
彼らはなぜあんなにもキラキラしたがるのか、理想の自分像を追い、明るい面ばかりを見せたがるのか。
そうせざるを得ない事情があるのだろうし、それは気の毒なことだと思う。
私にはその事情がないので、そうする必要もない。

また、落ち込まないことを推奨する傾向の正体は、落ち込んでいる本人のためを思ってのことではなく、実は周りにいる人たちが手間を惜しんでいることが多い。
私はそれが嫌い。
傍に落ち込んだ人がいると対処に困るから、仕事が滞るから、その負担や迷惑から逃れるために「落ち込まないでくれよ」と言っているのだとすれば、それはコミュニケーションや思いやりの問題だろう。
周りに十分な包容力と解決策、心のゆとりがあれば、落ち込んだ人を見守ってあげる環境は作れるはず。
「(私の)面倒が増えるから、(あなたが)落ち込むの禁止」だなんて、愛がなさすぎる。

そして私はBrown の言う”Vulnerability” の力(参照)という説を支持しており、傷つくことを恐れず、不安や悩みから逃げず、それらを直視し、認めることによって愛や喜びが生まれるという考えに共感している。
自分の臆病さに負け、ポジティブという名の舞台衣装を着て、威嚇する鳥のように羽を膨らませて生きるよりも、きちんと傷つき、きちんと落ち込み、逃げも隠れもせず、自分の身のほどを知って生きていきたいと思う。

もう1つは、教育的な理由。
私は鈍感を推奨するようなことは、教育的に見て適切でないと思う。
「バカ」や「老人」などと同様、悪口でしかなかった「鈍感」の利点を強調した“教え”が人気になって久しい。
それは言葉遊びとしてはおもしろいかもしれないが、私はこうしたイタズラにより言葉が本来の意味を離れて一人歩きし、曲解されて流行ることを強く懸念する。
ウケを狙い、方向性にズレが生じても放置したままだなんて、教育的良心が少しでもあればできないことだろう。
これもまた、愛がなさすぎる。

教育とは気づきを促し、感覚を鋭くさせ、意識を高め、注意深く多角的なものの見方を育てることだと思う。
「鈍感でいいんだ」と勘違いさせるような表現を使うのは、言葉に対しても、教育に対しても無礼。
私は日頃、言葉にも教育にも大変お世話になっているので、そんな表現を使う気にはとてもなれない。
むしろ異を唱えたいのだ。

敏感でいれば、傷つき、落ち込むのは当たり前。
だからと言って鈍感で済まそうとするのはインチキであって知恵ではない。
本当の知恵は、Resilience。
それは落ち込んだ後にしか生まれない。
落ち込んだからこそ見えるもの、聞こえることをつかまえて、痛みを含む、すべての感覚を研ぎ澄ませ続けること。
落ち込んだぐらいで離れていくような人は、どのみちいずれ離れていくのだ。
落ち込んだときこそ支えてくれる人を大切にすること。
そこで受けた恩を、いつかどこかで返すこと。
落ち込んで、立ち直って、また落ち込んで。
悪い予感に足がすくんで、その予感が的中して。
それでもなお、挑戦をやめないこと。

私は、そっちで行きます。

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