Community

率先すること、自ら動くこと、判断することと、コミュニティの意識について。

限られたごく一部の人だけがメディアを使い、限られた情報を細々と発信していた時代は終わり、インターネットを利用すれば誰もが、即座に、世界を相手に発信者になれるようになった。
このことは、ブログやフェイスブック、ツイッターなどの普及で多くの人が身近に感じていることだろう。

つまり、「世界に向けて何か言う」こと自体は、誰にでも、いつでも、どこでもできる、当たり前のことになった。
「ここでこう書くでしょ。ホラ、もう世界中の人に届いてるんだよ」なんて、二昔前なら皆を驚かせたようなことが、今は珍しくもなんともない。

このタイプのコミュニケーションを標準とするコミュニティにおいて、「ただ何かを言う」ことには、何の価値もない。
価値を生むためには「何を、いつ、どれだけ言うか」を考えなくてはならない。
たとえばTED翻訳チームで、各言語のリーダーが集まる場を見ていると、そこがわかっている人が多いなと感じる。

有益な情報を惜しみなく分ける。
問題が発生したら自分である程度の解決を試みる。
解決の可能性や結果に関わらず、問題があったという事実や、そのプロセスなどについて必要な情報は共有する。

ある情報が有益かどうか判断するためには、そのコミュニティに所属する人たちがどんな情報を好み、求めているか知る必要がある。
何らかの問題と思われる事柄が発生した場合には、その原因が「自分の知識や能力の不足」など個人的なことなのか、「システムの不具合」など組織的なことなのかを見極め、個人的なことが原因なら身のまわりの小さな枠内で収め、コミュニティにまで広げる必要はないと判断する。
問題が解決した場合や解決の方法がないと判明した場合にも、その情報を蓄積しておくことが将来コミュニティにとって役立つと考えられるものについては、全体で共有しておく。
情報を流す場合は、それを受け取る側の時間価値感覚を把握して負担にならない量や回数に収まるよう配慮する。

逆に、こうしたことがわかっていない人の動きを見ていると、「なんかよくわかんないけど、こういうことがあるらしいです」と未確認情報を無責任に垂れ流したり、受け取る側の興味や関心、事情を無視した情報を大量にぶつけたり、できない、わからないことがあると「とりあえず誰でもいいから早く教えて!」と手当たり次第に質問しまくったり、問題が解決したらすっかり満足してしまって助けてもらったお礼を言うことさえ忘れてしまったり、解決しようがないことを何度もしつこく尋ね続けたりしている。

そういう人は、自分の動きを振り返ることが少ないし、コミュニティの中の自分を俯瞰して見るための視野の広さ、精神的な余裕、想像力が乏しい。
やりっぱなしで「これがインターネットの世界だ」と都合のいいように解釈している。
教育的にはそういう人たちにこそ、一度、意識の高いコミュニティを見学してもらいたいと思うのだが、あいにく意識の高いコミュニティほど、そういう人たちに対する“嗅覚”が鋭く、簡単には入れてくれないので、学びの機会を得にくい。
このあたりは今の世代ではどうしようもないかな。
次世代以降は教育が先手を打つようになっていくだろう。
「あの頃は混沌としていたねぇ」と懐かしく思う日が来るのだろう。

誰でも発信者になれるということは、誰もが一人ひとり、個人の力量を試されるということであり、いつでもどこでも世界とつながっているということは、四六時中、世界から審査されているようなものでもある。
ただの暇つぶしも、酔っ払いの戯言も、一時の感情的な言動も一つ残らず審査の対象となっているのである。
そしてその審査結果は永久に蓄積され、どこかの誰かにとっての判断材料となる。
だからこそ、ある日突然、思いがけない出会いが生まれる。
シンデレラ的な夢物語が現実になるのか、大きな仕事のチャンスが舞い込むのか、詐欺などの犯罪に巻き込まれるのかは、わからない。
すべては“審査結果”によるのだと思う。

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