子育てという修行

子育てという修行について。

子どもを生むということは、多くの生き物が命がけでしていることだが、特に人間のように成体になるまでに時間がかかり、生命の維持以外に“不可欠”とされる条件が多い生き物を独立して生きていけるようになるまで育てるというのは、とても、とても大変なことだと思う。

新しい人間を生み、育てるということは、人類にとって命をつなぐことであり、社会にとって進歩や安定に寄与することであり、家族や身近な人々にとって喜びや愛情をもたらし、それぞれが成長するきっかけを作ることである。
これほど多岐に渡り大きな貢献をする営みは子育ての他にないと思う。

子育ては、時に大きな苦痛を伴う。
感情的な揺れ、精神的に辛い出来事に苛まれる。
迷い、悩み、落ち込む。
悔いや反省につながることもある。
生物学、心理学、脳科学などはこぞって親の責任を解明し、溢れる情報と無数の選択肢を突きつけてくる。
子育てはある種の博打のようでもあり、生産から加工、販売までを手がける商いのようでもあり、そんな喩えさえ非難されるほど高貴で神聖なものでもある。

子育ては修行だと思う。
子育ての結果として、良いのや優秀なのや、そうでないのや、いろんな人間が生み出されるが、それはさておき、子育てという修行を積んだ人たちは皆、等しく尊いのだと思う。

そして世の中には、その修行を与えられない人がいる。
おそらくは、修行に耐えるだけの力がないほど未熟か、修行の必要がないほど成熟しているか、どちらかなのだろう。
人類や社会や家族に対し、最大の貢献をするチャンスを剥奪または免除されているのである。

子育てをしないことは、時に大きな苦痛を伴う。
感情的な揺れ、精神的に辛い出来事に苛まれる。
迷い、悩み、落ち込む。
悔いや反省につながることもある。
子育てをしないことは、自由であり、気楽であり、哀しく、むなしく、申し訳ないものでもある。
子育てに付き物の葛藤とも、甘美な我が子との思い出とも、親バカの有頂天とも、子離れのせつなさとも無縁。
良くも悪くも結果は出ず、終わるということもない。

子育ての機会を与えられないこともまた、修行なのだと思う。

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