Profundity

ぱっと見ではわからない、でも意外とわかっちゃうすごさについて。

ランチに呼び出したり、自宅へ招かれたりして、しょっちゅうおしゃべりしている友人のステージを観に行く。
素晴らしかった。
そして帰り道、彼女が普段おおらかで、柔軟で、「どっちでもいい」「どうでもいい」「何でもいい」と言う理由は、ここにあるんだよなぁと思う。

そう重要じゃないところで場違いに熱くなったり、やたら自分がナニサマであるかアピールしたり、いちいち細部に突っかかる人がみっともないのは、その行為によって、その人が自分の実力をはっきりと示す場所を持っていないということが伝わってきてしまうからだと思う。

専門分野を持ち、実力を認められ、プロとしてやっている人は往々にして、それ以外のことについてはいいかげんなものである。
逆に言うと、どうでもいいところでいいかげんになれるということは、その人にはプロの顔をする場がどこか他にあり、自分にしかできないことをやっていて、それを認めてくれる人がいると見て間違いない。
そういうものがあれば、たとえばどうでもいい場でのどうでもいい理解など、得られなくてもどうでもいいわけだ。
強いて言えば、できるだけ面倒くさくないようにしたい。
そんな無駄な時間やエネルギーは持ち合わせていないから。

どうでもいいことに全力を注がない。
そのユルさから醸し出される余裕。懐の深さ。奥深さ。
ここぞという時に見せる顔は、ちょこちょこ見せられるものじゃない。
ある種の出し惜しみとも言えるかもしれない。

そして、“ここぞ”を持っている人には他の人の”実力”が即座にわかる。
柔道家は組んだ瞬間に相手の強さがわかるって言うけど、そんな感じだろうね。
分野が違っても関係ない。
「すごいだろ」と自慢する人や、感情でねじ伏せようとする人、面倒くさい人に出会ったら「はいはい、恐れ入りました」となるべく早く縁を切ろうとするのも、彼らには相手の行為の後ろにある薄っぺらさが見えていて、特別な事情がない限り、そこに関わるのは得策ではないと
判断するからだろう。

逆に持っていない人は、表面的に見えているものがすべてだと思いがちで、肩書きやブランド名、知名度、特定の一言などを判断材料にして簡単に惚れたり恨んだりする。
また、その判断の仕方を世界標準だと思っているから、自分の“見た目”が良くなるように気をつけてさえいれば世間の目はごまかせると思っている。
ま、実際ある程度はごまかせちゃうんだけどさ。

“ここぞ”を持っていない人が持っている人に対してうっかり無礼を働いてしまうのも、持ってない人の目には持っている人の後ろ側が見えていないのでしょうがない。
持っている人は持っていない人の後ろが見えていて、無礼の理由に納得がいっているから、腹を立てない。
ようでけたある。

それがオトナとコドモの違いかな。

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