Restrainers

久しぶりな人たちからうれしいお便りが相次いだ。

たとえばデータ収集の際に被験者として出会った日本の大学生Kちゃん。
被験者など研究に協力してくれた人たちから英語や留学について質問を受けることはよくあるが、大抵はその場限りか出会った直後だけ。
ところがこのKちゃんは久々にメールしてきたと思ったら「アメリカに来ました!」と。
学内選考をパスして、この秋からミネソタの大学での留学が始まったらしい。
寮での暮らしや授業など、まったく新しい生活での初めて続きのワクワクドキドキが伝わってくる。
「5月までの滞在中にどこかでお会いできれば」と言う。

他人の目を気にせず自分で判断し行動できるKちゃんが「いつかアメリカで勉強したい」と言っていたのを思い出す。
あの「いつか」がもう来たんだね。

コーチング受講生のSさんは、その後オーストラリアに行っていたらしい。
仕事の都合をつけて、念願の英語圏での生活をしてみた、と。
たった数ヶ月でも得るものは大きかった様子。
コーチングで身につけた学習方法も使ってくれているようだ。

そして滞在中にコーチングを受けた経験が役に立ったと言う。
「行ってみて、emi さんのコメントの意味がよくわかりました」「そういうことか、と妙に納得してしまいました」「英語の壁にぶつかったときに、ふと、emi さんの言葉を思い出して」「いろんな場面で落ち込まず、ポジティブにいられたのも、受講中にemi さんがかけてくださった言葉の数々のおかげです!」…と、その感動を伝えたくて、メールをくれたらしい。

ふむ。

日本人に英語教育なんて、本当に必要なのかな、という疑いは、私の根底に常にある(参照)。
ほとんどの日本人は、少なくとも当分は英語なしでもまったく不自由しない。
少数の英語が必要な日本人にしたって、そのほとんどは“そこそこ”できれば十分。
スマートに、楽しく英語に触れているうちに自然にできる程度に上達すればいいのであって、なにも必死でやる必要はない。
辛い思いをしたり恥ずかしい目に遭わないためにも、深入りしないでおいた方がいい。
グローバルなんて言いつつも、結局のところ日本人の英語は国内競技。
日本人同士の戦いで、日本人に勝てればいいのだから、「日本人のわりにできる」というレベル以上を目指す必要はない。

そんなんじゃダメだよと言うと「わかってる」と言う。
真面目にやれよと言うと「やりたくない」と言い、じゃあやめたらと言えば「そうはいかない」と言い、やめさせようとすると「やりたい」と言う。
どないせぇっちゅうんじゃい。

日本人の使う英語を研究するとか、日本人向けの学習法を作って提案するとか、そんなことをして何になるんだろうと思う。
私は何故こんなことに巻き込まれて、そこに多大な時間や労力を費やさなくちゃならないのか。
意味ないじゃん、と思う。

要するに、表面的にペラペラしゃべってるように見える人をテキトーに量産するのが良いという風潮で、大多数のニーズはそこにあって、それをやった方がうんとラクで儲かるのがわかっていて、私は何をやってるんだろう。

そういうジレンマやもどかしさやモヤモヤが蓄積され、ふてくされたり落ち込んだり、嫌になったりバカらしくなったりして、「もう、やーめた」と投げ出そうとすると、今回のお便りに象徴されるような“メッセージ”が届く。
決壊寸前でスッと何かが引いていく。
ふむ、となる。

意味はないわけじゃないのかな。
捨てたもんじゃないのかな。
で、もうちょっと続けてみるか、という気になる。
足を洗う機会を逃す。
その繰り返し。

そういうふうに、なっている。
困ったことに。

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