迷うという不幸

迷うということが不幸を招く。
そうだったのか!

ひょんなことから、このトークを知った。
Dan Gilbert: The surprising science of happiness
10年も前のトークなのに、今日まで知らなかった。

私は迷うということをしない。
人生に岐路(参照)を見るタイプではあるけど、岐路で立ち止まる時間は極めて短い。
そして自分の選んだものを大事にし、選ばなかったもののことはすぐに忘れる。

というわけでこのトークで紹介されている「幸福はFound(どこかにあって、見つかる)ではなく、Synthesized(内側で合成され、作り上げられる)である」という感覚はよく理解できるし、”Natural happiness”(自然発生的な幸福)にこだわって”Synthetic happiness”(人工的に起こした幸福)を軽視するなんてもったいないじゃん、と思う。

だから私は幸せなのであって、それは別にいいんだけど、ショックだったのは、これ。
“freedom to choose — to change and make up your mind — is the enemy of synthetic happiness.”
(意思の決定や 変更における選択の自由は、人工的幸福の敵である)

私の周りには、何事においても迷いに迷って、なかなか決断できない人がいる。
どこへ行きたいか、何がしたいか、何を食べるか、将来どうするか、やるかやらないか、などなど、迷う内容は大小さまざま。

たとえるならそれは買い物に行き、店内の商品を一つ一つ、じっくり細かく丁寧に見ては棚に戻す、を繰り返すようなもの。

私の買い物は「おっさんか」とツッコまれるぐらい早いので、このじっくりゆっくりな買い物の意味はさっぱりわからないのだが、たまたまとても気が長いので、遭遇しても待ててしまうのだった。
「これかなぁ、やっぱりあれかなぁ」と迷うこと自体が、この人たちにとっては楽しいのかもしれないし、楽しいのだとすれば時間の無駄ではないのだろうから、それは単なる性格の違い、価値観の違い、時間の感覚の違いなのだろうと思って、放ってあった。

こういう人たちが、迷っているうちに、だんだん自分が何を求めているかわからなくなってくるらしいのも、何度も目撃したが、それも別にいいかと思っていた。
「ごゆっくりー」とか言っていた。
急かすのはイヤだし、催促するのは面倒臭い、という私の側の都合もあるとは思うが、基本的には「ご自由にどうぞ」という感じで放置していた。

ところが、ところが。
迷うということを経て下した決断に、人は満足しにくいようなのだ。
トークで紹介されているデータによると、迷う時間、迷う機会を与えられず、その場でパッと決断した群が、その決断に対して後々満足するのに対し、迷う時間と変更(返品など)の機会を与えられた群は、せっかく決まっても、その決断に対して、後々も満足しにくい。
迷うという経験を経ることにより、「本当にこれでよかったのかな」「やっぱりあっちにすればよかったかな」というような迷いが生じ、選んだものに対しての自信や愛着を持ちにくくなる、と。

そして、そういう結果になると知らない人は、なんとなく迷う余地がある方が良いような気がして、自ら迷う時間や機会を与えられる群に入りたがる傾向がある、と。
自ら、ultimately deeply dissatisfied(最終的に大きな不満を持つ)ことになる状況に足を踏み入れてしまう、と。

なるほどー。
心当たり、あるある。
「あんなに迷って、結局なにも買わないんかい」ということになって、しばらく経って「やっぱり買いに行くんかい」となって、店に戻ったら売り切れていてものすごくガッカリして、やっぱりどうしても買いたいとか言い出して、探しに探して、なんなら大枚はたいてでも買って、買ってみたらそんなでもなかった、みたいな人、いるいる。
今まではただ「なんのこっちゃ」と思っていただけだったけど、そうかぁ、あれはあんまり放置しといちゃいけなかったんだな。

考えてみると、私は迷うことを許すだけでなく、返品期間までも設けていたようなところがある。
「いつでもいいですよ。決まったら教えてください」に加え、ようやく決まった後にも、まだ「わかりました。でもまた気が変わったら知らせてください」みたいなことを言っちゃってた。

あぁぁ、そうか。そうだったのか。
だから、ああいうことになったりしてしまったわけか。
それは申し訳ないことをしたな。

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