手加減

「ネイティブに手加減されないぐらい上達したい」について。

日本人英語学習者で、ある程度できるようになった人の一部に、今後の上達目標としてこういう希望を掲げる人がいる。

教育において、学習者の意欲は何よりも大切。
気が強いこと、負けず嫌いは言語学習の役に立つこともある。
特に日本人がアメリカに住むような場合は、日本では不要な戦いをしなきゃいけないこともあるので気持ちはわかる。

同じような気の強さ、プラス血の気の多さを示す目標に、「ネイティブと対等に喧嘩できるようになりたい」というのもある。

さて、「手加減」とは何だろうか。
「ネイティブに手加減されないぐらい上達したい」と言う人たちは、おそらく、「ナメられた」「子ども扱いされた」と感じた経験があるのだろう。

ナメられるということは、あるとは思う。
ナメられたら、不愉快だし悔しいだろう。
が、それは言語教育だけでは解決できない。
にも関わらず、学習者が言語の問題と決めつけて、それを理由に上達を目指して学習に意欲を燃やす。
…困ったもんだ。

カネ儲けが目的の英語屋さんならすぐに同調して、「そうですね!ぜひ上達して見返してやりましょう!」とか言って、最高ランクらしい“ネイティブレベル”まで上達できるよう、さっそく長期契約を取り付けるんだろうけど、彼らに、もし少しでも教育的良心があったらそんなことはできないだろうと思う。
まぁ、そのモチベーションで行けるところまで行くのも悪くはないし、そこに到達した後で気づくこともあるかもしれないから、協力できることはしてもいいけどね。
どこかで方向転換が必要になるなら、早い方がいいと思うよ。

日本語で考えてみよう。
適切な速度と明瞭さを持って話しかけられたことによって、「手加減された」と不快に思うことはあるだろうか。
さほど難読でもない漢字にルビが振ってあったり、読みにくいほどのひらがな続き、不自然なほど幼稚な表現などは「手加減」と嫌がられてもよさそうなもんだけど、結構平気で受け入れられてる気がするよ。

私には「手加減された」と感じた経験がない。
アメリカで、英語を第二言語として話す外国人として、「こっちはガイジンなんだからさぁ、ちょっとは手加減してくれよぅ」と思うことはいくらでもあるが、手加減されないようになりたいと思ったことなんて一度もない。
カスタマーセンターなどに電話をしたとき、早口ですぐ不機嫌になるようなオペレータより、きちんとした対応のオペレータに当たるほうが断然ありがたい。

私の周りは教育レベルの高い人やESLのプロが多いせいもあって、適度なスピードで、はっきりわかりやすく話してくれる人が多い。
こうした環境を「手加減されている」と呼ぼうと思えば呼べないことはないのだろうが、私は「恵まれている」と呼んでいる。

専門家や研究者は、時と場合、相手によって、当たり前に言葉を選び、内容のレベルを調節する。
同じ「ご専門は?」という質問でも、学会で出会った、専門の近い人を相手にする場合と、分野の違う専門家を相手にする場合と、一般の人を相手にする場合とでは、答え方が違ってくる。
これも「手加減」と呼ぼうと思えば呼べる。

重要なのは手加減しながらも、相手に「手加減された」と感じさせないことだろう。
これまでに私が「手加減された」と感じたことがないのは、私と話す人が私に対して手加減をしたことがないのではなく、私が「手加減された」と感じずに済むように、相手が配慮してくれたおかげだろうと思う。
相手からそういう配慮を引き出すスキルが、私に備わっているという言い方もできると思う。

“Any interpretation of scripture which leads to hatred or disdain of other people, is illegitimate.”
憎しみや侮辱につながる宗教は、本当の宗教ではない。
言語やコミュニケーションや教育が、喧嘩につながっちゃいけない。

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