伝える

伝わらないことを嘆いたり、伝わってしまうことを反省したり。

言語コーチングというものが何なのか、私がどんなことをやっているのか、あいかわらず、さっぱり伝わらない。
いつか、その時代の若い人たちを相手に、「最初はなかなかわかってもらえなかったんだよ」と言って、「えぇ、こんなにわかりやすいものが?」と驚かれる日がきっと来るだろうとは思うけど、とりあえず明日明後日の話ではなさそう。

それでも、ありがたいことに、勇気のある人、勘のいい人などが時々いて、コーチングの説明を聞いてくれたり、体験してくれたりする。
で、「こういうことだったんですね!」と言う。
ずっとそう言うてるやん、と思うけど、やっぱり百聞は一見に如かずというか、実際にやってみないとわからないものらしい。
つまり、言葉では伝わっていないのだなと思う。

同じ伝わらないにしても、内容はそれなりに進歩していて、たとえば、伝わらない理由の正体がたいぶわかってきた。
以前は私の注目恐怖症というか、宣伝嫌い、グイグイ嫌いが伝わらない原因のすべてだと思っていた。
求められない限り積極的に売り込まないし、説明も、しかけると途端に恥ずかしくなってきて、「まぁ、なんだかわからないことをやってるんです」なんて誤魔化しちゃったりしていた。
今もそういうところが大いに残ってはいるが、いちおうがんばって克服しようと努めており、恥ずかしいのを何とか抑え、説明の機会を増やそうとしているし、聞いてもらえるときは、途中で逃げずに、なるべく丁寧に説明するようにしている。

そうやって苦しみながら説明をしてみると、伝わらない理由は私の外にもあることに気づくようになった。
その大きなものの一つは、一般の人の想像力の限界。

私は自己評価が低いせいか、比較的、他人の能力を過信、過大評価する傾向がある。
私に理解できることは、誰にでも理解できると思ってしまう。
だから言語コーチングがどんなに新しく、珍しくても、私の頭で描けているのだから、他人の頭にも描けるに決まっていると思っていた。

ところが現実はそうではなかった。
一般の人は言語コーチングを理解しようとするときに、たとえば学校の英語の授業だったり、英会話学校のクラスだったりという、自分の既知の情報や経験をベースにしたがる。
「私の知っているアレと、だいたい同じだろう」という予想を持ち込み、それを手放すことがなかなかできない。

「英語学習」というキーワードを聞くと、多くの人は、自分が過去に作ったファイルを掘り起こし、そこに要るものだけを追加で記入しようとするのだ。
そして多くの場合、追加事項はほとんどなく、「更新するまでもない」と判断する。

この方略を私は個人的に持ち合わせていないようだ。
記憶力が異常に弱いせいもあるが、私は目の前の情報を、過去の経験とつないで吸収することがない。
新規の情報には新規のファイルを起こして、新たに書き込む。
書き込み終わって保存をする段になって、「あ、これはあれに近いな」と思って保存先を既存のフォルダに指定することはあるが、ファイル自体はその日の日付で、新しいものを作る。
今日得た新しい情報が、今日の私によって解釈されるのに、古いファイルの使い回しで済まそうとは考えない。

しかし、どうやら多くの人は、新しい情報に対していちいち新規ファイルを作成しない。
そのことを私は知らなかった。
さらに「私にわかるんだから、わかるでしょ」などと思っていた。
いやぁ、乱暴だったね。

これについての解決策はまだ見つからず、おそらく半永久的に模索と改善を続けていくのだけど、今のところ見つかっているのは、「英語」や「学習」とはすぐに結びつかず、かつ、一般の人が想像しやすいエピソードが有効らしい、ということ。
たとえば「アメリカで書道教室を開きたいという人が、開業準備の一環として、指導に必要な英語の練習をするためにコーチをつける」というような例を出すと、コーチングがどういうものか、理解してもらいやすいようだ。

「筆」や「文鎮」の使い方、「トメ」や「ハライ」の英語での説明や、指導に必要な表現を用意したり、YouTubeのビデオを見たり、生徒の質問を想定し、それに答えるロールプレイをしたり。
コーチはその学習を促進するために教材を選び、課題を与え、フィードバックをする。
こういう例だと、「英語」や「学習・勉強」という既存のファイルに触らず、「コーチング」というファイルが新規作成され、まっさらのシートに情報が書き込まれていくようだ。

私には、アメリカに住む予定もなく、お習字をやってもいない人にとって、なぜ「アメリカで書道教室」が想像しやすいのか、わからない。
そんなほとんどの人に関係のない例なら、「外資系コンサル会社の営業」の方がまだ身近じゃないの?と思うが、どうやら私はそのへんの感覚がズレているらしい。
何が伝わりやすく、何がそうでないのか、さっぱりわかっていないのだ。
だから、実践あるのみ。
具体例を手当たり次第に投げてみて、反応の良かったものを別の機会にも使うようにして、説明を徐々に進化させていくことにした。

説明を聞いたり、実際にコーチングを体験したりして、「こういうことだったんですね」となった人たちは、続いて、「そこまでやるんですか」と驚く。
で、「それではコーチの負担が大きすぎませんか」「頭の回転が速くないとできませんね」「これができる人はなかなかいないでしょう」などと言う。

これまた、最初っからそう言うてるやん、と思う。
そうよ、これはめちゃめちゃ大変だし、しんどいし、手間がかかるのよ。
カネ儲けという意味では、絶対、割に合わない。
だから余程の物好きでないと、やらないのよ。

一冊の教科書に沿って、十把一絡げに授業を進める方がラクに決まっている。
「私のようになりなさい」とお手本を示し、「リピートアフターミー」を強要する方がラクに決まっている。
一つの授業や教材をコピーして、何度も繰り返し使う方が、ラクに決まっている。
でも、それでは伸びないでしょ。
伸びないのを知っててやり続けるのは罪でしょ。
誰か違うことやりなよ、と願ってもちっとも叶わないから、しょうがないから私が始めたんじゃないの。
こちらの負担が大きかろうと、学習者が確実に伸びていくなら、それはもう、やるしかないじゃないの。

教える側がラクをしていては、学習者は奮い立たない。
だから私は私がラクできない方法を作ったのだ。

やっと伝わった、とうれしく思うと同時に、反省もする。
そういう舞台裏というか、見せるべきでない部分が伝わってしまっているのはプロとしてどうなのかな、と思うから。
たとえ水面下は激しくもがいていても、やはりプロなら、表向きは優雅にすぅっと泳いで見せなくちゃダメでしょ。
見抜かれて、「そうですね、コーチも必死です」と答えているようではまだまだだよね。

修行の道は始まったばかり。
がんばろ。

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