運の良い人が好き。

「好きなタイプ」の欄にも書いているとおり、私は運の良い人が好き。

私は日本の仏壇や神棚がある家で育ったので、いまだに「お天道様が見てる」という考えを強く持っている。
悪いことをすれば、たとえ警察に捕まることがなくても、親や先生に叱られることがなくても、お天道様が見ているから、あとで必ずバチが当たる。

人の目はごまかせても、お天道様はごまかせない。
他人はだませても、あるいはだまされたフリをしてくれても、自分はだませない。

因果応報。自業自得。
手を抜いてサボっている人には、ちゃんとそれなりの報いがある。
そして、真面目に頑張っている人にも、ちゃんとそれなりの報いがある。

だから人知れず努力していると運が良くなる。
運が良い人は、もれなく努力家なのである。
逆に運が悪い人は、どこかズルいところがある。
慢心、過信、油断、怠け心、手抜き、嘘。
これらを遂行すると、確実に運が悪くなる。
私はどちらも試してみたことがあるが、運は見事に良くなったり悪くなったりする。

努力や配慮、思考などの継続的な活動は地味なので、本人以外には見えない。
運の良い人が人目につくのは、好運が巡ってきたとき。
だから他人にはまるで好運だけが単独で突然現れて、たまたまその人にヒットしたように見える。
棚からぼた餅。
傍で見ている人はそのぼた餅が落ちる瞬間だけを捉え、「いいなぁ」なんてうらやましがったりする。
「あいつじゃなく、隣にいた自分にヒットしててもおかしくないんじゃないか」とさえ思う。

とんでもない。
その好運が舞い降りるまでには伏線がいくつもある。
地道で実直な積み重ねがあり、徐々に運が向いてくるプロセスがある。
ぼた餅は急になんて落ちてこない。
日々の行いをすべて詳細に査定しているお天道様は絶対的に公平で、評価が合格点に達した場合にのみご褒美をくれる。
誤って隣の人にご褒美を届けたりもしない。

運の悪い人を見ていると、どうやら自分の運が悪いことを、さほど深刻に受け止めていないようだ。
何か残念なことがあっても、それは自分のせいではないと考えがちで、自分のせいでないから、反省のしようもない、という論理。
「さあ、次、次」と切り替えが早く、嫌なことはすぐに忘れる。
楽しいことで強引に記憶を上書きしたがる。
胸に手を当ててじっと考えてみれば、運の悪い原因に心当たりはあるはずなのに。

一方、運が良い人は、自分の運の良さを、深く、長く、じっくり噛みしめて、ありがたがる。
自分の成功について、「たまたま」「運が良かっただけ」とか、「人に恵まれた」、「他の人のおかげ」というようなことをよく言う。
確かに最後の一押しは「運」が作用したかもしれないが、それだけではあるまい。
でもそれをあまり口にしない。
別に隠しているわけでもない。
問い詰めれば、ようやく自分の努力を部分的に認めるが、主要な要因は「運」だと本心から思っている。

あ、ひょっとしたら運の悪い人は、運の良い人のこの表現を真に受けて、「良い」を「悪い」へ、「おかげ」を「せい」へと単純に変換しているだけなのかもしれないな。
だとしたら無邪気というか、気の毒というか。
そりゃ、「要因を自分以外の人やものとみなす」という点で構造は似てるけど。
意味が違うんだよ。

運の良い人には私の好みの要素がたくさん含まれている。
だから私は運の良い人が好き。

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