『ラーメン屋vs.マクドナルド』

『ラーメン屋vs.マクドナルド』を読んで、英語教育を考える。

私は読むのが大嫌いなので本はわずかしか持っていない。
そのわずかな本のうち、99%が実用書。
それも「英語」「日本語」「教育」「文化」の分野にわかりやすく偏っている。

「文化」をさらに分類すると、「ナマのアメリカを見てきた日本人によるアメリカ論」というカテゴリーができそう。

たとえば…
高木 哲也. (1996). 謝らないアメリカ人 すぐ謝る日本人:生活からビジネスまで、日米を比較する. 草思社.
尾崎 哲夫. (2001). アメリカにあって日本にないもの:この国で勝ち残るためのヒント. 自由國民社.
小林 至. (2003). アメリカ人はバカなのか. 幻冬舎.
町山 智浩. (2008). アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない.文藝春秋.
下村 治. (2009). 日本は悪くない 悪いのはアメリカだ. 文藝春秋.
加藤 諦三. (2010). 誰も書かなかったアメリカ人の深層心理. 朝日新聞出版.

これだけでも私のアメリカ観がある程度バレちゃうね。
ふふふ。

で、今回はこれ。
『ラーメン屋vs.マクドナルド:エコノミストが読み解く日米の深層』。

おもしろかった。
ちょうど先入観や「わかり易い俗説」の邪魔さ加減、論理より情緒が先行する厄介さ、「日本の無謬信仰」(p. 60)について考えていたから
個人的にタイムリーだった。

以下、経済の本なのに、私が読んで感想を書くと、どうしても英語教育の話になっちゃう、という例。

著者の竹中氏は2003年から4年間、ワシントンDCに駐在していた日本人。
エリートの彼の英語力は一般日本人よりかなり高いに違いないし、英語が専門外である以上、その自己評価は不正確だろうと思う。
謙虚な方なんだろうとも思う。
そういう前提のもと、本人申告によると彼は英語が得意ではない。
「英語力のハンディ」(p. 78)を感じ、ネイティブばかりの完全アウェイな議論の場で発言の機会を奪取する難しさを正直に告白している(p. 84; 99; 102)。

そんな彼が、孤軍奮闘、苦手な英語を駆使してアメリカ人に立ち向かい、堂々と意見する。
もちろんその挑戦は常にうまくいくわけではなく、悔しい思いをすることもある。
でも諦めない。
「やっぱり自分の英語じゃダメなんだ…」「ネイティブにはかなわないんだ…」なんて凹まない。
あるいはうまくいったときに、「俺の英語も上達したもんだ」と満足したりもしない。
ひたすら挑戦を続ける。

彼の武器は英語力ではない。
彼が武器に選んだのは事前に蓄えた情報や知識、時間内に的確に要旨を伝えるための論理展開だ。

英語が苦手な日本人である彼が凹むことなく果敢に挑戦を続けられた要因は、「日本男児の名がすたる」(p. 89)などと表現されている使命感だろう。
そこに、豊富な知識に裏打ちされた持論のクオリティの高さ、「俺に言わせろ」の主張とそれができるメンタルの強さ、人懐っこさ、社交性、ユーモアのセンスが加わって、彼は立派にアメリカで成功することができたのだと思う。

英語力が不十分にも関わらず。
または英語力が不十分だからこそ。
うん、ここんとこが、英語教育的に考えどころなんだよね。

この本の序盤に、ある日本人女性が登場する。
アメリカの大学の社会学の教授として、「アメリカ人同様の流暢な英語で」(p. 16)、よくある俗説を根拠に“日本はダメだ論”を展開する。
アメリカにしばらく住んでいれば、一度はお目にかかるタイプの方だ。
最終学歴にカタカナの大学名を引っさげて国政選挙に出る人の中にもこういう人が多い。

竹中氏の意見はこうだ。
「生粋の日本人なのに、欧米で高等教育を受けて、欧米の機関で働き、完璧な英語でしゃべる人の中に、時折大変に厳しい日本批判をする方がいる。
厳しい批判でも洞察力のある内容なら傾聴に値するが、ステレオタイプ化した日本認識をベースにアメリカン・スタンダードの価値観で批判することが多いのは残念だ。
それでは、二つの異なる文化の双方を理解できる境遇を生かしていないことになる。」(pp.20-21)

まったくその通り。大賛成。
ではあるのだけど、先に述べたとおり、英語教育的にはここが難しい。
だってこういう人たちは英語が上手いから。

私は英語教育を専門にしている立場上、「完璧な英語」という表現は避けるが、彼らの英語がうまいことは認める。
ネイティブ並みに、ペラペラと、上手にしゃべる。
英語がうまくて、「わかりやすい俗説」が織り込んであれば、アメリカ人には確実にウケる。

中身がないにも関わらず。
または中身がないからこそ。

そしてこのタイプの英語がしゃべれるようになることを、一般の日本人学習者は目指している。
ご本人たちも旗振り役を買って出て、「私のようになりなさい」と呼びかけたりしている。
彼らのような日本人を増やすことが、現在の英語教育の目標である。

理論武装して、きちんとした議論をし、外国人から真の理解や信頼を得ていても、その英語が流暢でなかったり、発音に日本語風なところがあれば、現代日本人学習者にはウケが悪い。
英語教育は客商売ではなかったはずなのだが、マーケティングや市場価格にすっかり魅了され、学習者の好まない英語を目標に掲げるほどの気概はない。
どんなに内容が薄かろうと、偏った見解だろうと、感情論だろうと、そんなことはどうでもいい。
学習者が流暢に、ネイティブのように、なんとなく聞き心地のよい英語がしゃべりたいと言うのなら、そのようにしてあげるのが英語教育の仕事なのだ。
長いものに巻かれておけば波風は立たず、最小の労力で最大の効果が得られるのだ。

ナンバーワンの国、世界最強の言語という“長いもの”に巻かれ、それらに擦り寄るタイプの人は英語が上手。
それらに噛み付き、言語以外の知識や技術を磨いて、哲学や知見、人間性などの魅力を高め、日本人として、個人として、存在感を放っている人は、あまり英語が上手じゃない。
言語以外に頼るべきものがなければ言語は上達し、言語以外に戦えるものがある人は、言語に頼らないから言語が上達しないのかもしれない。

そして日本人の多くが憧れるのは前者の、英語が上手な人たちである。
そのトレンドに沿うかたちで英語教育の“方針”ができる。
ま、じゃあしょうがないよね。

『ラーメン屋vs.マクドナルド』は、やり方によっては、「私がアメリカ人を言い負かすほどの英語力を身に付けた秘密」とか何とかいうテーマで、安っぽい英会話ハウツー本に仕上げ、俗説に迎合して売り上げを伸ばすこともできたはず。
ま、この著者がそんなことを望むわけないけど。

竹中 正治. (2008). ラーメン屋vs.マクドナルド:エコノミストが読み解く日米の深層. 新潮社.

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