『言葉の海へ』

『舟を編む』からの『言葉の海へ』。
やっと読めた。

“からの”というのは、どちらも辞書作りに関わる本だから。
大槻文彦編、『言海』は『舟を編む』の全編を通じて言及されており、その改訂版『大言海』は引用文献にもなっている。

だから『舟を編む』のイメージで、日本最初の国語辞典がどうやってできたのか、その制作風景を覗くつもりで読み始めた。

大間違い。
これは19-20世紀の日本の政治、教育、学術研究の発達を記録した歴史書であり、大槻文彦という偉人の伝記である。
実際、文彦が国語辞書編纂を命ぜられるのは、全293ページ中の198ページ目。
辞書が作られていく過程はこの本の最後の3分の1にさらっと描写されているだけ。
そんなことより、ずっと大事なことがあるのだ。
なぜ彼がこの大事業に心血を注ぐことになったのか、なぜそれを成し遂げることができたのか、時代背景と大槻文彦という人物の成り立ちを知れば、その不可能が可能になった理由がわかる。

1757年に生まれ、蘭学を修め、芝蘭堂という家塾を築いた祖父・玄沢。
1801年に生まれ、詩文や漢学とともに西洋砲術を学び、幕末の乱世にも一貫して開国論を唱えた父・磐渓。
そのプライド、国際感覚と洋学の才を受け継ぎ、日本語文法と国語辞書の創出に尽くした文彦。
もう、それはもう、めちゃくちゃカッコいいのだ。

玄沢の言葉として父から伝えられ、文彦が心に刻み、辞書編纂を成すための支えとしていた言葉なんて、机の前に貼っておきたいぐらい素晴らしい。
「およそ、事業は、みだりに興すことにあるべからず、思ひさだめて興すことあらば、遂げずばやまじ、の精神なかるべからず。」(p. 74)

国家としての日本の誕生に立会い、将来の日本の姿を思い描き、日本を育てようとした人。
文彦の、日本語に関する研ぎ澄まされた感性(pp. 221-223)、外国語文法に関する知識と見解(pp. 263-264)は、辞書編纂者にふさわしい卓越したものだ。
しかし、私が特に感銘を受けたのは、研究者として、教育者として、あるいは日本人として、日本や日本語に対する敬意と誇りを確立しながら外国や外国語と接する彼の毅然とした態度である。

その心構えを以下に引用しておく。

(父からの教え)
外国の言葉をまなびその書物を読み解いても、それを自らの言葉で誤りなく美しく表せなければ世の役に立たぬ(p. 88)

(外国文化をそのまま移入することについて)
ヨーロッパに蜜蜂のあることを識れば、熱地には熱地の蜜虫を見つけ出して、育てる。
それが見識であり、また、利にもつながるはずだ。(中略)
日本文法と日本辞書を、この国に育てなければならぬ。
それなくして欧米人と付き合うのは不見識であり、恥ずべきである。(p. 177)

一国の国語は、外に対しては、一民族たることを証し、内にしては、同胞一体なる公義感覚を固結せしむるものにて、即ち、国語の統一は、独立たる基礎にして、独立たる標識なり。(p. 183)

各国が互いに交通すれば、互いにその国語を知らぬわけにはいかない。
その際、文法の誤りは交際の過ちとなる。(中略)
一科学としての文法の書なくして、一国の独立はない。(p. 186)

近頃の俗流洋学の徒には、国語の特性を考えもせず、単純に、彼の文法に我を合わせようと、牽強付会の説をなす者がいるけれども、それは愚かなこと。そんなことで洋文法の忠臣面をするのがおかしいし、そもそも一国の文法が他国の文法の忠実な僕であったりしては、「国語」の独立はない。私どもにも同じものがあります、というような卑屈なことで、他国の敬意は得られない。彼我の事情を熟知した上で、我の特性を論理によって提示する。
それこそが、国と国とが相識り相敬する方法なのではないか。(pp. 239-240)

漢学だけ、或いは洋学だけを修めた人は、日本文は語法が粗くて精密な論理文など記し得ないとか、腰が弱くて雄渾な議論文などつくり得ないとか言う。これもおかしい。(中略)
この談話の語を文にできないというのは、その人の未熟に過ぎぬ。(p. 264)

くぅぅぅ。カッコいい。

高田宏. (2007). 言葉の海へ. 洋泉社.

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