教育

改めて、『教育』って不思議な分野だよねと思う。

生まれる場所によって内容や量に違いはあれど、人間に生まれたら、誰しも自動的に教育を受ける。
親やきょうだいなどの家族、教師や先輩などの指導者、友達などの仲間、社会などの組織、その他、本や逸話や信仰などさまざまなものから、教えられ、育つ。

大きくなるにつれ、兄や姉、先輩や上司、親などになって、他の人間に物事を教える機会が増えてくる。
教えながら教わることも多い。

そういう誰もがほぼもれなく体験する教育とは別に、プロとして教育に携わる者もいる。
特定の分野の専門知識を身につけ、それを伝授する。
そのプロセスの中で、さらに教育に特化して研鑽を積み、『教育科学』といわれる分野に進む者もいる。
教育的な効果・効率を研究したり、哲学や心理学を取り込んで、よりよい教育法を開発し、科学的な説明を加えながら提案したりするのだ。

こうした教育の専門家になる人は、教育者のうちでも一風変わった異端児であることが多い。
教育という、昔から誰もが身に覚えのある分野で、小さな子どもから親、評論家、考え方の異なる同僚、教員歴の長いベテランから教育政策の鍵を握る大物まで、あらゆる人ををたっぷり巻き込んで、彼らの協力を得て、新しいことをやらかすためには、どうしてもタフなInnovator (革新者)的要素が必要なので、自然とそうなっちゃうんだろうね。

つまり、教育の分野には、どの科目でも満遍なく優秀な成績が収められるような、いわゆる真面目な優等生タイプと、得意科目と不得意科目の差が大きく、人によって評価の分かれる、やんちゃで型破りなタイプとが混在しているってこと。
個性の違いはどこにでもあるけど、教育の分野ではこのあたりの白黒が非常にはっきりしている。

そして教育のプロには、前提として、科目による違いがある。
教員になる人はほとんどの場合、まず自分の専門科目を持ち、それを教えることからスタートするので、当初はその担当科目が彼らの専門である。
教員は担当科目によって分類され、それぞれ「いかにも」な雰囲気を醸し出すようになる。
多くの教員はそのまま分類の中に留まって、色を濃くしていく。
しかし、ある時点で教育者としての専門性を高めることを選択すると、科目の専門性は相対的に低くなり、分類の垣根がなくなって、融合が始まる。

たとえば私の所属する教育学部を見ると、修士レベルでは科目によってプログラムが分かれている。
(注:教員免許は修士で与えられるため、学部レベルの教育専攻のクラスはほとんどない。)
たとえばTESOLのプログラムへ行けば、クラスメートはだいたい英語や外国語の先生で、言語や異文化や習得過程や教授法などについて全員がだいたい同じクラスを受講するようになっている。
彼らの専門は『英語などの外国語を教えること』になる。

これが博士レベルになると、あくまでも専門は『教育』なので、クラスメートには国語の先生も理科の先生も美術の先生もいる。
幼児教育から公共教育、障害のある人向けの特殊教育、高等教育に生涯学習、移民教育など、教える対象も幅広い。
さらに、教育政策に関わっている文科省の人もいるし、教科書や各種テストの開発や結果の統計分析、学校や国ごとの教育レベルの査定をしている人も入ってくる。

そういう科目や立場や目先の目的を越えたところで『教育』を語り、そこで考えたことをそれぞれの持ち場へ持ち帰って、全体として教育を良くしていくことを目指すのだ。
たとえばESLを教える人ならば、ESLという科目は、自分の経験や教育哲学を語るための文脈であり、生徒や教材のことを具体的に考えるための枠組みであり、アイディアや新しい技術を還元するための場所であって、ESLについて直接的に学ぶという機会は減っていく。

その意味で私は教育を専門にすると、専門科目は“サブ”になっていくのだと思うし、“サブ”にならないのであれば、その人は科目の専門家であって、教育の専門家ではないのだと思う。
専門科目を追究した人が、たまたま教育機関に就職したりすると、教授することが苦手な“教授”になっちゃったりするが、教育は彼らの専門じゃないからしょうがないのだ。

実際、TESOL/ESLという科目で博士に進む場合にも、教育を選択するより、言語学や応用言語学を選ぶ方が一般的である。
普通は専門科目を掘り下げる道へ進む。
上位カテゴリーである教育を選ぶということは、実はその時点ですでに“異端”なのかもしれない。

優等生もいればやんちゃ坊主もいる。
保守的な人もいれば破天荒な人もいる。
自然科学、社会科学、人文、工学、芸術など、あらゆる科目の専門知識を持った人たちが一堂に会している。
科目に集中して専門性を高めている人もいれば、科目を越えて教育を専門にしている人もいる。
さらにそういう人たちが、いまや国境も言語も文化も越えて、自由に意見交換したり、議論や共同研究を行ったりしている。
世界的な規模で大掛かりな教育改革を実践することも、そのために予算を組むことも、適材適所に人を配することも、方針や目標を掲げてカリキュラムを作ることも、一つ一つの授業を綿密に計画し、生徒一人一人に向き合うことも、すべて『教育』の重要な要素。
もう、しっちゃかめっちゃか、ごちゃ混ぜのごった煮の何でもアリ。
それが『教育』という世界なのである。

そんなだから私のようなのでも、なんとなく混ぜてもらって居場所を与えられているのである。
こんな分野はなかなかないよ。

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