死について

あぁ、中村勘三郎さん。
惜しい人を亡くすとはこのことだ。

私は歌舞伎を観たことは数えるほどしかないし、勘三郎さんのこともほとんど知らない。
つまりファンでも何でもないのだが、そんな私でも心の底から惜しいと思う。

このブログでも襲名披露(参照)、平成中村座試演会(参照)、そして、ついに観ることが叶わなかった法界坊(参照)と、勘三郎さん関連で過去3回書いていたことを思い出す。

いのちの終わりは誰にも等しく訪れる。
私は「早すぎる死」などというものはないと思っている。
死はいつでもその人に合ったタイミングで、適齢期に与えられる。
勘三郎さんのような人は、普通の何倍もの速さと濃さで生き切った人に違いない。
それをカミサマに認められて、天に召されることが決まったのだと思う。

だとしても、やっぱり惜しい。

長男の勘九郎さんは、「前へ進まなければ怒られる」と言った。
彼には父の声が聞こえている。
匂いや温度や気配が感じられている。
勘三郎はこれからも家族や他の多くの人たちの中で生き続けるのだ。

私にも、私の中で生き続けている人たちがいる。
私自身もすでに誰かの中に“生き場所”を持っている。
人の声は、生きている間より生き終わってからのほうがよく届くと感じる人が多いかもしれないが、私はその差を感じない。
私は生と死をさほど明確に分けていないのだろう。

今回の帰国ではなぜか家族や友人と死について語ることが多い。
死の話は怖がって遠ざけようとする人もいるから相手を選ぶが、だからこそ、逃げずにまともに死の話ができる相手は貴重であり、それに付き合ってくれる人が身近にいるというのは、ありがたいし幸せなことだと思う。

それにしても勘三郎さん。
惜しい。

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