共依存

教育とは手放すこと。
ひとりでも大丈夫なようにしてあげること。

『共依存』という状態がある。
弱い者を支える・助けるという名目で傍に寄り添い、献身的に世話を焼く人が、実はその世話を焼くことそのもの、つまり、自分が依存されている状況に依存しているために、お互いがお互いに依存する関係に陥ること。
依存される側がその立場を失わないために、弱い者を弱いままに留めておこうとするから、弱い者の依存はより強くなる。

もっともよく知られた例はアルコール依存症患者とその家族。
患者を抱える家族は悩み、犠牲を払い、アルコール依存から立ち直らせようと努力しているように見えるが、実は家族のほうがその苦悩に依存しているため、その状態を改善したりも、そこから脱出しようしたりもしない。
表面的には患者からアルコールを取り上げるような行動をしながら、完全には取り上げないように調整する。
うっかりアルコールを断たれて、患者が患者じゃなくなったりしたら困るからね。

「うちのXXのことでほとほと苦労している」と言いつつ、その苦労がなくなったら自分の存在価値がなくなるという不安から、苦労の元が保たれるように仕向けていく。

この状態にいる人は相手の自立をなによりも恐れる。
相手が自立し、自分から離れていくことを恐れる。
必要とされなくなる→捨てられる→孤独になると思うと、怖くてしかたがない。

心理学の専門家によると、共依存への完全な対策はないのだという。
依存者どうしを物理的に引き離し、それぞれの自立を促すぐらいしか手立てがないのだそうだ。
うーむ、困ったもんだね。

最近の日本の教育は共依存傾向にあると思う。
教育が成長する側にしがみついている。
育てているフリをしながら、ただ付きまとっている。
本当は育たないでずっと傍にいてほしいと思っている。

子どもが自転車の練習をしているとき、フラフラして危なっかしい子の後ろを支えながら、親は頼られている喜びを感じる。
そして、それをいつまでも味わっていたくなる。
支える手に「もう乗れているな」という感覚が伝わってきても、置き去りにされる寂しさに耐えられず手を離すことができない。
「この子にはまだ私の支えが必要だ」と信じたいし、子どもにもそれを信じさせたい。
「まだ全然ダメだね。乗れるようになるまでがんばろう。練習にはいつでもつきあってあげるから安心してね」。

やがて子どもは力をこめてペダルをこぎだす。
後ろを支える親は自転車につかまって必死で走る。
子どもは親が息を切らしているのに気づく。
「あ、自分はもうひとりで自転車に乗れているんだ」。
振り返ると親が目で訴えている。
「おいてかないで」。

子どもはペダルから足を離す。
「やっぱりまだひとりじゃ乗れそうもないよ。これからも練習につきあってね」。
親のほっとした表情に、子どももほっとする。

自転車を英会話に置き換えても同じこと。
日本の英語教育は、英語のできる日本人を養成するフリをしながら、いつまで経っても英語ができない人を量産している。

多少フラフラしていても、まだ自信がなさそうでも、「もうひとりで大丈夫」と背中を押してやらなければならない。
自分を頼ってきた相手が自分の手を離れていくとき、「これは喜ばしいことなんだ」と言い聞かせて、寂しさに耐えなければならない。
転んでケガをすると知っていても先回りはせず、なんとかやっていくだろうと期待して、笑顔で送り出してやらなければならない。

私が作った英会話コーチングに“卒業”を設けている意味はそこにある。

課題を確実にこなしてコースを修了するころには
ご自身の英語の「これから」が見えるようになっています
独立した学習者としてコーチのもとから立派に巣立っていってください

あら、宣伝みたいになっちゃった。

業界全体が変わらないとどうにもなんないけどね。
始まりはいつも誰かの自己満足だと割り切って、地味ぃに行くしかないのでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です