足し算・引き算

アメリカは足し算、日本は引き算。

よくある例えとして、ドライバーと歩行者の行動が挙げられる。
信号のないところで歩行者が車道を渡るとき、日本では基本的に歩行者が待つ。
アメリカでは車が停まる。
日本の歩行者は小走りで渡る。
アメリカの歩行者は悠々と渡る。

日本では“迷惑をかけないようにすること”がとても重要。
歩行者は車を停めさせないように努める。
やむを得ず停めてしまったときには、できるだけ短時間で済ませるように、つまり“迷惑”を最小限にとどめるようにする。

アメリカでは“良い行いをすること”がとても重要。
ドライバーは歩行者を通してあげることで、“良いこと”ができる。
歩行者にはそれを受け止めてやること以外に、なんの義務も責任も生じない。

日本人ドライバーは、日本人の小走りが表す、“迷惑だと知っていますからすぐ終わらせます”というメッセージに好感を持つ。
アメリカ人が悠々と歩いていると、「なんだ、その態度は」と腹が立つ。
アメリカ人ドライバーは、歩行者がどう渡っていようと構わない。
自分が良いことをしたことには変わりがないから。

持ち点を減らさないように気をつける日本人を引き算の文化、持ち点を稼ぐようにがんばるアメリカ人を足し算の文化とすると、日本人の”I’m sorry”の多用も、アメリカ人の”Thank you”の軽さも説明がつく。
ちょっと極端なことを言えば、その延長線上の両端に”harakiri”と”kudos”があるのだと思う。
ただ勝てるだけの選手は、日本の国技には要らないのだ。

反省・指摘・予防・洗練・改善・工夫と、創造・抜擢・民営化・規制緩和・方向転換の間あたりに、引き算と足し算の境目がある。
重箱の隅をつついて出した引き算の答えは緻密でキチンとしている。
ごった煮に素材を加え続ける足し算の答えは柔軟でおおらか。

授業中ひと言も発言しない生徒や、これといって功績のない企業の歯車でも、ある程度の評価を得て暮らしていけるのは、引き算文化のやさしさであり弱点でもある。
競争を促しチャンスを与え、自分を認めさせる訓練を積みさえすれば、破天荒の一発屋でものし上がっていけるのは、足し算文化のパワーであり弱点でもある。

ところで最近の日本国民は、政治家にも実績より潔白を求めるのだろうか。
少し前まで芸能・芸術をやる人と政治家ってのは、どこの国でも足し算だったはずだけど。

さて。
言うまでもなくこのふたつは優劣の関係ではない。
ただ、いかんせん引き算には華がない。
謙虚が主張に呑まれ、地道が即効性に押しやられ、寡黙が大声にかき消される。

たいていの真実は地味で、たいていの虚偽は派手だったような記憶がある。

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