語学

語学という呼び方がよくないんじゃないのかな、について。

語学というからには、言語について学ぶこと=言語学、となるよな。

文法や音声(発音)、語彙や辞書的な意味、ややマニアックなところだと語源。
ここら辺をコツコツ勉強することは、言語学というカテゴリーに入る。

言語学はひとつの歴史ある立派な学問で、一言語のある特徴だけを取り上げても非常に奥が深く、学者の生涯がいくつあっても足りない。
他の言語と比較して見えてくる部分が多いので、たとえば日本語ではAだけど英語ではBだったり、A’だったりXだったり3Lだったりという事例を拾い出しては理由を考える。
訳読や誤用分析などはこの辺に関わってくる。

ひと昔前までの学校英語は、言語学的に外国語を勉強する分野だった。
受験でも社会でも求められる“語学力”は、英語という言語についての知識だった。

いつの間にか“語学力”にコミュニケーションが加えられ、急激に支持を増し、言語知識と対等に扱われるようになって、「文法だ、いや会話だ」というケンカが始まった。

名前がカタカナなせいか言語学より若いせいか、とっつきやすく感じられるかもしれないが、コミュニケーションもれっきとした学問の一分野である。
言語学の付属でもカジュアル版でもない。

雑な言い方をすると、コミュニケーションにおける言語は表面的な現象のひとつ。
言語だけでコミュニケーションを説明することはできない。
どの言葉をどう使ってどんな伝え方をすることで、相手とどういう関係を築いていくか。
コミュニケーションと言語学は、言語という共通の知り合いがいるけど、“語学”で同居できるほどの深いつきあいはない。
くっつけるなら社会学や人類学の方がよっぽど近い。

つまり「文法だ、いや会話だ」のケンカは、言語学とコミュニケーション学というふたつの分野の違いを議論しているのであって、「まぁまぁ。どっちも入れときますから」なんて簡単なことでは解決しないのだ。
安易に仲裁することで受験英語は中途半端な構成になり、つられて学校英語もどっちつかずになってきている。
トップがはっきりしてくれないと、迷惑するのは教室、つまり学習者と先生だ。

研究が進み分野が細分化されるのは自然なこと。
ボール遊びだって、いろんなスポーツに分かれて発展していったじゃない。

私は“語学”を、従来どおり言語的知識に限定してほしいと思っている。
先に述べたとおり、言語学はそれだけでもじゅうぶんに学ぶ価値のある分野だからだ。
独学でカバーできるのも強み。

現在“英会話”や“オーラル・コミュニケーション”“実践英語”などと呼ばれている科目の一部は、“語学”ときちんと切り離す必要がある。
コミュニケーションを“語学”の片手間に教えたり、講師の経験談だけに頼ってバラバラに語ったりするのはそろそろ止めよう。

対話力を身につけることを目的とし、母語を含む人間のコミュニケーションを考察しながら、会話を運び意味を伝えることを教えるべきだと思う。
そこに外国語をさりげなく乗っけておく。

『標準でなければ英語じゃない』と主張する学習者は、“語学”を勉強するうちに、「やっぱり伝わらなきゃしょうがないなぁ」と思うかもしれないし、『通じりゃいいじゃん』派はコミュニケーションを学ぶうちに、「語学を知っておくと通じやすいかも」と気づくこともあるだろう。

ついでに添えておくが、異文化コミュニケーションは決して子ども向けではない。
母国の文化の習得途中にある子どもは、外国のルールに対しても抵抗が少ないが、結局どちらもうまく消化できない可能性がある。
複数の文化の融合は誰にとっても難しい。
とはいえどちらかを否定するようになってしまっては、教育として失敗だ。

子どものうちの方がラクそうに見えるのは、あくまでも大人が大人の目線で判断しているから。
子どもにとって大きな負担になる危険性を忘れないでほしい。
年齢とともにコミュニケーションが複雑化していくのは、同一文化内でも異文化間でも同じこと。
特に親の異文化での経験が浅い場合、子どもが苦しくなった時、どう理解してやれるのか。

一方、母国の文化がしっかり定着している大人は、スポーツ経験者と同じように応用が利くので、ルールを理解して適切に練習すれば、“語学”はともかく異文化コミュニケーションを上手にこなせるようになるかもしれない。
母国文化で凝り固まった筋肉を、異文化がほぐしてくれるかもしれない。

どっかのエライ人が早く提案すればいいのに。
みんな本当はうすうす気づいているんでしょう?

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