異なるということ

いつも理性的な同居人Cが、珍しく「もう!ムカつく!」と吠えている。

カウンセリング専攻のCが取っている授業、”Multicultural Perspective”。
「おもしろそうじゃん」と言ったら、「そう思ったんだけどさー!」。

多文化とは名ばかりの、白人たたきの授業だという。
非白人の学生の発言が好意的に捉えられる一方、Cをはじめ白人の学生が何を言っても、きれいごととしか取り上げられない。
ちなみに担当教授は非白人。

たとえば「人の価値は肌の色では決まらない」というような発言を“黄色”の私がすれば大絶賛だが、白人=racistという前提の教室では
Cが同じことを言おうものなら、「うん、それは正しいよ。でも君は本当ぉぉにそう思う?」などと教授に聞かれ、それで怒っている。
その行為こそracistだと私も思う。

カナダ人のCがアメリカで“外国人扱い”を感じているという経験などは、まったく議論の対象にならない。

Cは本当に異文化に対して理解が深い。
友達もたくさんいて“無国籍”な仲間を大事にしている。

「外見で判断するというのは事実で、なくすことはできないと思う」とCは言う。
ぱっと見て「あ、ガイジンだ」と反応してしまうのは、ごく自然なこと。
それをなくそうとすれば、“異”なものを避けて、関わらないようにしようとしかねない。
個人や異文化を知ろうとしないという意味で、差別と何ら変わらない。

たとえばCはスパイスの香りが苦手。
だからインド人の友達の家に行った時、正直「うわ」と思ってしまった。
「これと人種を絡める必要はある?」。
そしてその「うわ」を超えて友達でいるということこそ尊重されるべきではないのか。

でもそのエピソードは、教室では思ったように伝わらないかも。

Cは自分の発言が教授の求める意見じゃないのは承知だが、オープンな性格上だまっていることもできない。
で、帰ってくるなり「ムカつく!」となる。

「期末のペーパーあたりに、“うちのアパートでこんなことがありました。やっぱりアジア人は私の同居人として相応しくないです”って書けばAがもらえるんじゃないの?」と言ったら、「それいいね!」と笑った。

このところモヤモヤ考えていることと、どこかつながりそうだ。

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